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第三章:過去からの追想
週が明けて空気が少しだけ軽やかになったように感じた朝、沙都子はいつもより早めに家を出た。前夜にバタバタと用意した資料を念入りに確認したかったからだ。メールチェックを済ませてから落ち着いて会議室のセットアップをしておこうというのが目的ではあったが、どこかそれ以上に“何かを待っている”ような気分が胸を占めている。
そしてオフィスのフロアに着いた瞬間、ふと視界に松下の姿が飛び込んできた。実際には似た背格好の男性社員の後ろ姿だったのだが、一瞬だけ心臓が跳ね上がる自分に驚く。そうだった、彼が出張で来ると聞いたばかりなのだ。いつもの仕草で挨拶を交わしながらデスクへ向かうと、「おはようございまーす」とあちこちから声がかかる。そんなやり取りに返事をしつつも、脳裏では“彼との再会はどんな形になるのだろう”という不安と期待が混ざり合っていた。
課としての朝礼が終わると、沙都子は手早くメールをチェックしてスケジュールを確認する。実は今日から二日間、グループ会社の担当者との打ち合わせが続くことになっており、その一環で松下もこの本社に呼ばれているはずだった。いつどこで顔を合わせるかはわからないが、少なからず再会を避けることはできないだろう。
というより自分の心のどこかで、もしかしたら彼から連絡があるのではと期待している面もある。何しろ、社内恋愛の“元相手”という関係を公にできないままだ。過去に共有した秘密があるからこそ、このバレンタイン前の再会にはどこか特別な意味合いを感じてしまう。けれども、一方で彼は既に結婚して新しい生活を送っている。「自分だけが騒いでどうするのだろう」という冷静な自分の声も聞こえるのだが、思考と胸の高鳴りのバランスがうまくとれない。
早速午前中の打ち合わせが始まる。会議室に顔を揃えたメンバーを見渡してみると、その中に松下の姿はない。不思議な安堵感と、少し残念な気持ちが入り混じったまま議事が進んでいく。グループ会社同士の予算調整や業務分担のすり合わせが主題となり、淡々とした進行の中、沙都子はファシリテーション役としてきびきびと指示を出す。
しかし会議の合間、何げなく視線を窓側に向けた瞬間、松下が廊下を横切るのを見つけてしまった。ガラス越しに見える姿は、相変わらず背筋が伸びていて清潔感のある雰囲気を保っている。髪型は少し落ち着いた印象に変わったように見えるけれど、その柔らかな笑顔は遠目からでもわかるほど昔と同じだった。
「彼……来ていたんだ」
胸の奥で、ごく小さなつぶやきが弾ける。あの頃の記憶が、一気にこみ上げてくるようだ。仕事が終わってからふたりで食事をした帰り道、部署のメンバーには秘密にしながら深夜までプロジェクトの資料を作り上げたこと、そしてデスクの下でこっそり指先が触れあった瞬間に、思いがけず熱い気持ちがこぼれ落ちそうになったこと――。短くも濃厚だった時間は、彼女にとって今でも忘れがたい青春の一ページだった。
昼休みが近づいてきた頃、打ち合わせ用の備品を取りに行った控え室に彼が立っていた。鍵を開けた扉の向こうに松下の姿を見出した瞬間、沙都子は思わずかすれた声を出して「…あ」とだけ呟く。すると、驚いたように振り返った彼が笑顔を浮かべた。
「久しぶり。三沢さん、相変わらず頑張っているみたいだね」
名前を呼ばれた瞬間、胸に甘酸っぱい痛みともいえる感情がこみ上げる。同じ部署だった頃は互いに「名字+さん」付けで呼び合っていた。それがかすかにくすぐったく、懐かしい。
「久しぶり…。こっちに来るって聞いたけど、今日だったのね」
「うん、忙しいんじゃないかと思って、あえてメールも送りづらくてね。急なスケジュールで来ることになったんだ」
気恥ずかしさと懐かしさが入り混じって、どこか不器用に言葉を交わすふたり。ほんの数秒の沈黙の後、松下は控え室の棚からファイルを取り出して、「もし午後から時間があったら、打ち合わせの前に少しだけ相談したいことがあるんだけど」と沙都子を見つめる。その瞳は昔と同じく柔らかい茶色をしていて、声を聞くだけであの頃を思い出させる。
「相談って?」
「仕事のこともあるけど…まあ、それだけじゃないかな」
そこで何か言いかけた松下は、ふと近づいてきた他の社員の声に気づき、言葉を切った。居合わせた社員たちに「こんにちは」と声をかけさわやかに笑いかける彼の姿は、昔と変わらず周囲に愛される雰囲気を醸し出している。沙都子は少し苦い思い出が頭をよぎった。あの頃も、多くの女性社員が松下に好意を持っていたことを知り、何度も嫉妬しそうになったことがある。ただ、彼自身は誰に対しても平等で、決して自分の感情を大きく表には出さなかった。
そんなコントロールの上手い人柄に、心が惹かれ、けれども不器用さを感じたことがある。自分からすれば、勝手に恋をして勝手に傷ついたとも言えるが、そのときのもどかしさが今も失われてはいないのだと、再会して改めて自覚する。
午後になり、沙都子はある会議室で待機していた。松下と話す約束をしたわけではないが、彼が「少しでも話せないか」と口にしていたのが気にかかり、空いている小さな会議室の予約を取っておいたのだ。そして案の定、廊下を通りがかった彼が視線を送ってきたので、手振りで「ここに入って」と合図を送る。
「さっきは中途半端なところで終わってしまったからね」
静かな部屋に入ると、松下はそう言ってドアを閉めた。資料が散らばったテーブルを挟んで対面に腰を下ろすと、一呼吸置いてから穏やかに語り始める。
「久しぶりにこっちに来るって聞いて、正直複雑だったんだ。三沢さん…いや、沙都子がどうしているか、ずっと気にはなっていたから」
いきなり名前呼びに変えられた瞬間、沙都子の心が揺れる。松下は落ち着いたトーンで、まるで昔話でもするように、少しずつ会話を継いでいく。
「でも、連絡するのもどうかと思って。俺も結婚したし、君もいろいろあったって聞いてる。今さら昔のことを掘り返したくないっていう気持ちもあって…」
「ああ、そうだよね。私たち、いろんなタイミングを逃してしまったから」
その言葉を発したとき、沙都子は自分の声が少し震えたのを感じた。過去に起きたトラブルによって関係が壊れていく時、“きちんと話し合えばよかった”という後悔がずっと胸の奥底に残っていたからだ。
松下は申し訳なさそうに眉を下げる。「あのとき、ちゃんと三沢さんの気持ちも聞かずに自然消滅のような形になったのは、俺の責任だとも思う。だけど言い訳すると、部署全体が崩壊寸前で、俺も冷静さを失ってた。結局、君との関係も曖昧にしてしまって…」
「ううん、私もあの頃は動揺していたし、誰にも迷惑をかけたくなくて、むしろ黙ってたんだ。もう過去のことだし、いまさら責める気はないよ」
そう口にしながら、沙都子は不思議と穏やかな気持ちになっている自分に気づいた。以前の自分ならば、もう少し感情的になって「どうしてああしてくれなかった」と責め立てるか、あるいは顔を合わせるのさえ苦痛に感じたかもしれない。けれども、今こうして互いにやわらかい空気の中で会話できていること自体が、どこかで「もう大丈夫だ」という安心感をもたらしてくれる。
「ところで、君もいろいろあったみたいだね。噂程度にしか聞いていないけど…離婚したって」
松下が遠慮がちに触れた言葉に、沙都子は微苦笑で応じるしかない。すでに終わった過去だが、社内で細かく説明する機会もなかったし、彼自身がどう知ったのかは定かではない。ただ、よほど気を遣ってくれているのだろう、「辛かったんじゃないか」としんみり言う彼の優しさに、「ありがとう」と答える。
「しんどい時期もあったけど、今は普通に暮らしているよ。自信がないときもあるけど、まあ、どうにかやっていけてる」
言いながら、沙都子は自分の胸にかすかな痛みがあることを再確信する。松下から同情の言葉を受け取れるほど、割り切れない何かがまだ心に残っているのかもしれない。
「そうか。元気そうでよかった。…で、実はさ、今回来たのは仕事の打ち合わせだけじゃなくて、君に渡したいものがあってね」
段々と柔らかい笑顔を浮かべる松下。続く言葉を待つ沙都子は、小さく胸を高鳴らせながら息をのむ。
「渡したいもの?」
「ああ、変に期待させちゃったらごめん。俺の結婚式のときに、昔お世話になった人たちへ感謝の品を配りたかったんだけど、結局いろんな事情が重なって君には渡せずじまいだったんだ。でも心のどこかで、ちゃんと手渡したかったという気持ちがあって」
そう言ってスマートフォンを操作し、何かを確認する彼。もしかして、それが匿名カードの正体なのかと思い緊張が走るが、松下は自然なまなざしを向けてくるだけだ。
「俺の結婚生活は派手じゃないけど、まあまあ幸せだよ。嫁さんも普通のOLで、贅沢はしてないし。でも、やっぱり君との仕事の時間はとても大切だったから」
結婚している今でも、昔を懐かしむように口にする彼に、沙都子はどう返せばいいのかわからない。戸惑いや複雑な思いが心を渦巻きつつ、一方で懐かしさが温かな彩りを持って広がっていく。自分はもう彼を確かな意味で愛しているわけでもないはずだが、感情が無になることは決してない。そんな自分にまた気づき、新たな一面を見るような感覚がある。
「ごめん、仕事の都合があるから、明日また改めて連絡するよ。昼休みか夕方あたりに会議室を押さえてくれると助かる。君ときちんと話したいこともあるから」
そう言い残して、松下は次の打ち合わせの時間だと急ぎ足で会議室を出て行った。渡したいものがある、と言われても、それが何なのかは明言されないままだ。先日の匿名のカードとの関連性も、いまのところ確証はない。下手に疑うのはおかしいが、いずれにせよ当日までに進展があるのだろうか。彼の予定では、出張が終わるのはバレンタイン当日の直前と聞いている。それまでに再び顔を合わせる機会はあるはずだが、それを思うとどこか落ち着かない。
“でも、あのカードを松下が送った可能性はやっぱり低いんじゃないか?”
ぼんやりと考えながら、沙都子は机に散らばった資料を片付け始める。彼の言動からは常に“誠実さ”が滲んでいる。いくらバレンタインが近いとはいえ、松下がわざわざ匿名で仕掛けるなんてやり方は想像しにくい。そもそも、沙都子の誘惑を狙う理由も、結婚した彼にはないはずだ。だとすれば、松下の出現と匿名カードはまったく別の出来事なのか。
心は原因不明のときめきに動揺しながらも、彼女の頭は冷静に情報を整理しようとする。バレンタインの直前で松下が来る。そこには“過去の清算”とも呼べるような気配がある。一方で、何者かからの視線や差し出された不思議なカードも気にかかる。“会いたい”という言葉は、一体誰に向けられたものなのか。
夕方、外も暗くなりかけた頃、沙都子は業務の合間にふと休憩室へ向かった。眠気を覚ますためのコーヒーが欲しかったのと、少しだけ頭をクリアにしたかったからだ。休憩室に入ると、窓の外には夜景が広がり始め、ビルの明かりが煌々と輝いている。日々追われるように仕事をこなしていると、一年の初めの頃からこのバレンタインの時期まで、本当にあっという間だ。
「ここのところ変わったことばっかり…」
独り言のように小さく呟く。離婚後、自分の人生にこれほど刺激的な展開が訪れるとは想像していなかった。過去との再会、得体の知れないメッセージ、同僚たちのバレンタイン騒ぎ――すべてがあわただしい渦の中に沙都子を巻き込んでいるように思える。
最後にカップへ熱いコーヒーを注ぎ、クスリと小さく笑った。“もう一度熱い気持ちになりたい”と、ほんの少し願っていた自分がいたことを思い出す。バレンタインなんて、自分には関係ないと思っていたけれど、これほど心が揺さぶられる瞬間がまたやってくるとは。一筋縄ではいかない人生だけれど、悪くはないかもしれない――そんな前向きな気持ちがひそかに芽生える。
仕事を再開しようと廊下へ戻ると、そこへ後輩の橋本がやってきて「お疲れ様です~」と明るい声をかけてくる。彼は手に抱えたいくつかの段ボールと格闘しながら言った。
「そういえば、松下さんいましたね! すごく感じのいい人ですね。今度うちの部署にも顔を出してくれるらしいですよ」
「そうなんだ。なるほど、相変わらず人気があるね」
沙都子が半ば呆れたように微笑むと、橋本は「まあ、人柄がいいですから」と相槌を打ちつつ、段ボールを抱えたままフロアの奥へと歩いていく。松下は昔から誰に対してもフラットに接する。決して八方美人というわけではなく、自然な人間性を備えた社交力なのだろう。彼には恋愛関係を抜きにしても学ぶべきところが多いと感じる。だからこそ沙都子も、彼にもらった思い出を大切にしたいと思っている。
――明日、彼と話せる時間を見つけられたら、一度しっかり話しておこう。もはや恋愛感情というより、過去の延長戦のような気持ちかもしれないが、それを経て新しい一歩を踏み出すためにも必要なことだ。彼から渡されるものが何であれ、それを受け取ることが自分にとっての“次のステージ”への区切りになる気がしてならない。
やがて夜になり、残業を終えて静かなオフィスを出る頃には、普段通りのルーティンが戻ってきている。少し肝心な部分が落ち着かないとはいえ、どこか心は軽い。ビルを出て駅へ向かう道すがら、しばらく感じていた視線はどうやら今日は気配を潜めているようだった。まったく消えたわけではないかもしれないが、少なくとも昼間のうちは嫌に周囲を気にすることもなかった。
“あの日、私が失ったり手放したりしたものって、実はそんなに大きくはなかったのかもしれない”――ふと、そんなふうに思い至る。離婚や仕事のトラブルが重なり合った時期には、どうしようもないほど未来に悲観的になったこともあった。それでも、時間を経てみると、いくつかの人間関係は新しい形に変化し、自分も再び立ち上がってきた。そして今、昔の恋人ともう一度話すことができる境地にいる。
夜風が少し冷たい分、コートの襟を立てながら歩く足は軽い。はやる気持ちを隠せない一方で、自分の中に芽生えつつある“もう一度、新しい扉を開けたい”という気持ちを確かめるように、沙都子は黙々と駅へ向かう。あの匿名のメッセージが導く先にあるものは何か。松下が渡そうとしているものは、いったいどんな想いが込められているのか。“バレンタイン当日までに”と聞いているが、もしかしたらその瞬間が、自分の心を大きく変えるきっかけになるかもしれない――。
やがて改札口を抜け、電車に揺られながら、いつもより少しだけ意識的に窓の外の景色を眺めた。遠くのビルの光や看板、夜の街並みが流れていくさまは、昨日までと同じ光景のはずなのに、どこか心弾む音を帯びているようにも思える。確かに過去は取り戻せないが、しみついた後悔は少しずつ薄れるものだ。そして、未来を彩る種は、ひょんなことから姿を現すのかもしれない。
そう、バレンタインのような特別で、少しだけ甘い季節に――。