ドラマ 恋愛

【前編】40代からのバレンタイン

https://lumoes.com

翌朝、まだ少し肌寒い風を受けながら出社した沙都子は、オフィスビルのガラス扉に映る自分の姿を無意識に確かめた。特に変わったことはない。ただベージュのコートとパンプス、それに落ち着いた色合いのバッグをさげた中年女性がそこに映っているのみだ。けれども、先日届いた“あのカード”以来、なんとなく落ち着かない気持ちが消えない。胸の奥底に広がり始めたざわめきが、いつもより敏感に周囲の気配を拾っているような気がする。

バレンタインが近いとはいえ、忙しい平日は容赦なく押し寄せてくる。社内では朝礼が終わったあとからさっそく電話の対応や書類チェックが続き、気がつけば昼も過ぎていた。デスクから離れられないまま、空腹をやり過ごそうと軽く差し入れのスイーツを口にすると、なんだか甘さがいつもより感じにくい。視線がやたらと気になるせいで食べ物の味がよくわからないのだ。まるで周囲のどこかに、自分を注視する誰かが潜んでいるようで、胸の奥がそわそわと落ち着かない。

そんな不安を抱えながらも、気のせいかもしれない、と頭を振って払おうとする。それほど警戒するような状況ではないし、現に誰からも「私が手紙を書いた」なんて声をかけられたわけではない。だが、昼休みを目前にして、ふと廊下の窓越しに視線を感じた。慌ただしく行き交う社員たちの中、誰かがこちらを凝視しているかのような重苦しさが一瞬だけ肩をかすめる。けれども、振り返ってみてもそこに“それらしい人影”は見当たらない。廊下の奥には同僚たちが何人か立ち話をしていただけで、いかにも悪戯をしそうな若手社員の姿も見えない。こうして何度キョロキョロしてみても、原因らしきものは掴めないまま消えていくのだ。

午後一番には、グループ会社との合同会議が予定されていた。沙都子は書類を抱え、会議室へと急ぐ。何かと慌ただしい年度末に向け、協議する項目も多い。自分の立場上、議題を整理してファシリテートする役目が回ってくるため、中途半端な集中では臨めない。エレベーターを降りて正面の会議室へ向かうと、ガラス張りの向こうに既に数名の担当者たちが着席しているのが見えた。

「お疲れ様です」

扉を開けて挨拶をしながら席に着くと、慌ただしくページをめくる音があちこちで響く。書類の準備やプレゼン用の資料確認に気を取られ、先ほどまで感じていた視線のことは頭から霞んでしまいそうになる。実際、会議が始まれば緊張感が高まり、自分の出番がやってきた際には言葉を選びながら議論を進めることに専念せざるを得ない。

だが、その集中を突き破るかのように、ふと視界の片隅をかすめるものがあった。会議室のガラス越しに見える廊下の向こう――曇りガラスと化した部分の隙間から、何かが動いたような気がする。じっとこちらに顔を向けていたのは誰だろうか。仕事相手が通りがかっただけかもしれないし、ただの偶然かもしれない。それでも、あのカードのことが頭から離れない沙都子には、得体の知れない違和感がますます大きくなっていくのがわかる。

「…三沢さん? どうしました?」

隣に座る同僚が小声で耳打ちする。どうやら一瞬、ぼんやりと宙を見つめてしまったらしい。慌てて「ごめん、ごめん、何でもないの」と返し、再び資料に視線を落とす。仕事に集中しなければならない俺たちの大事な時間。この場では余計な雑念を振り払うしかない。

結局、会議は予定より長引いたものの、滞りなく終了した。沙都子は後片付けをしながら書類をまとめ、帰りがてら資料をコピー機にかけているときにも、また背後に人の気配を感じた。勢いよく振り向いてみれば誰もいない。どうも今日はこうした瞬間がやけに多い。“気のせい”では済まされないほど頻繁に感じているのだ。

「私、疲れているのかしら…」

書類の束を抱え、内線電話でデスクに呼び出された後輩へ受け渡す。そのまま少し遠回りして給湯室でお茶を淹れようとすると、コンコンとドアの外で誰かが通り過ぎるような足音がした。心のどこかで、「今のは誰?」と身構える自分に気づき、沙都子は軽く息をつく。こんな疑心暗鬼は自分らしくない。いつもなら残業で夜遅くなっても、そこまで自意識過剰にはならないはずだ。

お茶の湯気に浸りながら、沙都子はふと独り言のようにつぶやく。「あのカードのせいかしら…。もし何か言いたいことがあるなら、はっきり姿を見せてくれればいいのに」。そう口にすると、自分の言葉が思いのほか切実に響いて、もっともな理由を欲しがっている自分が浮き彫りになる。――本当は、誰かから真剣なアプローチを受けたいと思っているのだろうか。それとも、“もう一度、人を好きになってみたい”と願う心が、見えない影を呼び寄せているのか。

そう考え始めた時、沙都子の耳に、ある名前が入ってきた。廊下を歩きながら雑談している営業部の社員たちの会話が、給湯室まで微かに届いてきたのだ。

「松下さん、出張で来週にでもこっち来るらしいよ」「何年ぶりだろうね。前にいた部署の人、喜ぶんじゃない?」

耳馴染みのある響きに、沙都子の胸が強くどきりとした。松下――かつて同部署だった男性であり、沙都子と極秘の関係にあった人物。あまり大っぴらには語れないが、当時ふたりは仕事上でも私生活でも近い距離だった。優秀で物腰の柔らかい彼は上司からの受けもよく、沙都子自身も強く惹かれていた時期がある。

けれども、大きな仕事のトラブルが発生し、部署全体に負担がかかったあの出来事を境に、ふたりの仲は自然に遠ざかってしまった。そうこうするうちに沙都子は結婚し、松下は別の支社へ異動。それっきりプライベートでも連絡を取ることは限りなく減り、彼の存在は彼女の記憶の奥深くにしまわれていた…はずだった。

しかし今になって、ビジネスの名目で彼がこちらを訪れるという知らせを聞くと、無防備に封印が解かれていく感覚がある。胸の奥にしまい込んでいた酸っぱさ、あるいはほろ苦い思い出が、一瞬にして引きずり出されるようだ。「松下が来る」――それだけで自分が落ち着かなくなるとは、思ってもいなかった。

実際、離婚の経緯を社内に詳しく話しているわけでもなく、松下との過去の関係を公言しているわけでもない。ただ、自分にとってあのときの恋は、仕事と感情を両立する難しさを痛感した象徴的な出来事でもあった。いま振り返れば、あの失敗がなければ彼との未来も違った形になっていたかもしれない、そんな淡い想像が頭をよぎる。

松下は学校を出てすぐの頃から社内で一目置かれる存在だった。営業成績も悪くなく、人当たりもよく、そしていつも柔らかな笑顔を崩さない。人望の点で言えば沙都子も負けてはいないのだが、周囲に流されず危なげない彼の姿に、心惹かれた女性は多かった。実際に沙都子もその一人だったわけだが、結果として、互いに仕事のミスが重なり合って混乱が起こり、そのまま関係は立ち消えとなった。形としては穏便な別れ方だったかもしれないが、互いに心残りはあったのだろうか。

そんな彼が数年ぶりに出張で現れる。そのタイミングが、バレンタイン目前のこの時期――偶然かもしれないが、不思議と「なにか意図があるのでは」と勘繰りたくなる。あのカードの差出人が、実は松下ではないか…と考えなくもない。けれども、松下は常に正々堂々とした性格だったし、いやに回りくどいアピールの仕方をするようには思えない。彼が来ると聞いただけで動揺している自分自身に、沙都子は「まるで未熟な乙女みたいね…」と苦笑いするしかなかった。

だが、松下の再登場とは別に、“甘くない緊迫感”が沙都子の周囲をゆるやかに囲んでいく。カードの“会いたい”という言葉、度重なる視線の気配――それらに偶然という一言で片付けられない印象を拭えない。

そして夜。いつもどおり残業を終えて帰宅の途についた沙都子は、会社のビルを出た瞬間、一瞬誰かの気配を背後に感じて振り向いた。しかしビルの明かりが薄暗い歩道を照らすだけで、人影らしきものはない。街灯のオレンジ色が石畳を照らし、スーツ姿のサラリーマンや学生が足早に通り過ぎていくばかりだ。

気のせい……で終わらせるには自分の直感がざわついている。大きめのバッグを抱え直し、周囲をもう一度見まわしてから早足で歩き出す。「何かあったらどうしよう」――そんな不安も少しある。だけど、同じくらいの割合で「もしこれが何かの予感だったら知りたい」という好奇心が心を刺激する。その感情は、彼女が長い間忘れかけていた“ときめきの始まり”に似たものだった。

また、一方では「もしこの視線や手紙が松下の仕業なら、なぜ名前を出さないのだろう」という疑問も生まれる。彼ならば正直に自身の言葉で沙都子にコンタクトを取ってくるだろう。そもそも社内便を使ったり、匿名のカードを送ったりするような、まわりくどいことはしそうにない。それなら、彼とは別の誰かが動いているのか。それとも、これは社内の若者たちのイタズラ企画の一環なのか。想像は次々と湧きあがってくるものの、正解へとたどり着く方法は見当たらない。

帰りの電車に乗り込みながら、はやる気持ちを宥めるかのように深呼吸をする。ここ最近は平穏な毎日に慣れすぎていた。何か大きなトラブルが起こってほしいわけではないが、一方で動き出す予感に胸が騒ぐ。バレンタインを迎えるまでに、この“見えない視線”の正体がわかるのだろうか。それとも、わからないまま過ぎ去ってしまうのか。

しばらく窓の外の街並みを眺めていると、ふとスマートフォンが振動した。有象無象のSNS通知か仕事関係の連絡かと思いきや、画面には見覚えのないアドレスからのメールが届いていた。件名は空白。開いてみると、そこには短い文面が載っているだけだった。

「きっと、あなたにとって大事なバレンタインになります」

名前も署名もないメッセージに、思わず息を飲む。その一文だけが送信元不明のメールとしてぽつんと存在しているのだ。まるで自分の心を見透かしたかのようなタイミングに、違和感と期待がないまぜになって胸が高鳴った。

“どうして私……? これって、本当に誰が何をしようとしているの?”

不確かな問いが幾重にも重なりながら、電車のアナウンスが次の停車駅を告げる。降りるべき駅はまだ先だが、なんだか落ち着かなくて、思わず立ち上がりそうになる。押し寄せる戸惑いと微かな期待感に飲み込まれ、手のひらにじんわりと汗がにじんでいる。

まだ答えはどこにも見つからない。ただ、確かなことは、今の沙都子の心は以前のように“何も起きない日常”へと戻るのを拒み始めているということだ。モノクロのように見えていた日常風景が、少しずつ鮮やかさを帯びていく。こんなにも心を乱してくる出来事は久しくなかった。

それは、望んでいたようで、本当は怖くもある感覚。けれども、あのメッセージカードもメールの文面も、「ただの気のせい」では片付けられない重みを伴っている。松下の出張の話も気にかかるし、この先の日々がまるでジェットコースターのように動き出すかもしれない。――そう思うと、失うものがあろうとも、その流れに逆らわず身を任せてみたいという気持ちがわずかに湧いてくる。

バレンタインが迫るなか、沙都子が感じる“見えない誰かの視線”は、これからどんな形で彼女を動かし、そしてどんな結末へ導くのだろうか。夜の街を映す電車のガラス窓には、自分の瞳がいつもより揺れた光を宿しているように見えた。

-ドラマ, 恋愛
-, ,