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【前編】40代からのバレンタイン

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【前編】40代からのバレンタイン
【中編】40代からのバレンタイン
【後編】40代からのバレンタイン

仕事を終えて遅い帰宅をすると、まずは玄関の電気を点け、そして無造作にコートをハンガーにかける。それから小さく息を吐き、靴を脱ぎそろえる。この一連の動きは、まるで長年身につけた作法のように流れるようだった。けれども、心のどこかに張りついた淀みのような違和感は、夜になっても消えてはくれない。いつの頃からか、彼女の生活には「変化」を拒む無意識の壁ができあがっていた。

名を「沙都子(さつこ)」という。40代という年齢は、若さと成熟が混在している時期でもある。一方で実際の自分を振り返ると、若さゆえの勢いは少しずつ薄れ、かといって十分に人生を語れるほどの経験もまだ不足しているような、そんな半端さが胸の片隅に居座っていた。長く勤める会社では、部下や同僚からの信頼も厚く、人望があると言われる。ふとした折には後輩に相談を受けてアドバイスをしたり、暮れに会社全体のまとめ役を買って出たりすることもある。けれども、年齢を重ねるにつれ、胸の内側でむくむくと大きくなっていた“情熱の灯”は、いつしか弱まっているように感じてならない。

職場ではバレンタインが近づくたびにそわそわした空気が流れる。男性社員たちは「今年は義理チョコの相場が上がったらしい」「営業先からのチョコ、面倒だけど楽しみでもある」などと口にし、女性社員は「今回はあの人に本命を渡したい」「とりあえず形だけの義理用は大量に買わなきゃ」と、半ばお祭り騒ぎに加わっている。そんな中、沙都子はどこか距離を置いた姿勢を貫いてきた。20代のころは、バレンタインが来るだけで心が浮足立ったものだ。誰かを想うだけでそれが自分の支えになるような、そんな季節ならではの甘酸っぱい熱気。しかし結婚、そしてその後の離婚を経験し、燃え上がるような感情を抱くことはほとんどなくなってしまった。過去のほろ苦いやりとりを思い出すたび、彼女は胸の中に固い塊を抱えるようになり、それを他人に悟られないよう心の奥底に隠している。

それでも、まったく何も感じなくなったわけではない。ときおり電車の中でカップルの楽しそうな会話を耳にすると、“ああ、あの頃は自分にもああいう時間があった”と懐かしくなることがあったり、街中で手をつないで歩く夫婦を見かけると、心がちくりとすることもある。そんなとき思い起こすのは、もし自分がもっと素直に好きという気持ちを伝えられていたら、いま違う景色を見ていたのではないかという仮定の未来。頭の中で蜃気楼のように揺れる小さな「もしも」は、一瞬だけ沙都子の心を乱し、そのあとすぐに拭い去る。もう過去に戻ることはできないし、軽やかに恋を楽しむような年代でもない。そう自分に言い聞かせるのが習慣になっていた。

だが、バレンタインを前に、会社の若い人たちが活気に満ちた表情で計画を立てている姿を見ていると、少しだけ胸がそわつくのも事実だった。「バレンタインなんて、お菓子会社の商戦に踊らされるだけ」と割り切るのは簡単だけれど、その奥にある“誰かを想う気持ち”を否定しきれない自分にも気づいている。心の深いところでは、また人を好きになりたい、もう一度緊張とときめきが入り混じった感覚を味わいたい。それが恋愛という形でなくてもいいから、人生にもう少しだけ彩りを取り戻したい――そんな願望が、かすかな灯火のように残っているのだ。

だが、願う気持ちがあっても、どう動けばいいのかわからないのが正直なところだった。社内で噂になるのは気恥ずかしいし、かといってプライベートで新しい出会いの場を探す元気もない。毎日が無事に過ぎてくれるだけで十分、そう思いつつも、本当にそれでいいのかという小さな疑問が心に生まれ始めている。何か新しい一歩を踏み出したい気持ちと、一歩を踏み出すことのリスクを恐れる気持ち。どちらの感情が勝つかは、自分でもわからなかった。

だが、そのどちらかを天秤にかける前に、バレンタインの季節は否応なくやってくる。ラジオから流れるCMにチョコレートの宣伝が続き、駅前のショーケースが華やかな限定パッケージであふれだす。会社の上司が「俺もそろそろダイエットしないといけないのに、バレンタインで台無しだよ」と嘆きながらもどこか嬉しそうに笑う。そんな周囲の様子を見ていると、うんざりする反面、ほんの少しだけ羨ましくなる。沙都子は自分がそんな感覚を抱いてしまうことに驚いていた。諦めと達観に浸ってばかりでは、意外と心が動いてしまう。

それならいっそ、ほんの少しだけ期待してみようか――そう思った矢先にも、過去の痛い思い出が頭をもたげる。失敗は何度も経験してきたし、離婚の一件で周囲に迷惑をかけたこともあった。もう傷つきたくないという思いは強い。だけど、「人を好きになること」に臆病になったまま人生を終えたくはない。もしかしたら、今の自分にも再び熱くなるような瞬間が訪れるかもしれない。そうしたわずかな希望が、夜の暗がりでも目を閉じる瞬間でも、心の奥に小さく灯り続けている。

静かな決意を抱くまでには、もう少しだけ時間が必要だったかもしれない。しかし、遠回りをしてきたからこそ見えてくる景色があるような気もしていた。誰でもない自分自身のために、そしてこれまでしのいできた人生を少しでも報いたいから――。沙都子はあまり意識しないようにしてきた胸の内側の“まだ消えない情熱”を、ごくわずかに解き放とうと決める。そこに行動が伴うかはわからないが、ほんの少しでも心を開けば、何かが動き出すかもしれないから。

そうして迎える今年のバレンタイン。その日がいつもと同じ一日で終わるのか、それとも新しい出会いや思わぬ感動が待ち受けているのかは、誰にもわからない。少なくとも今は、日常のなかに失われかけていた「ときめき」という言葉を思い出すだけでも、人生は少しだけ色を取り戻したように感じられる。静かに、しかし確かな情熱が心の奥底で燃え始める音がする。その炎は、過去の失敗や痛みをいずれ和らげ、自分の未来へと導いてくれるのだろうか――沙都子は、その問いを確かめるために、また明日の会社へと足を運ぶのだった。

何も起こらないかもしれない。けれど、もし次の瞬間に心揺さぶられるような出来事が起こったとしたら、もう一度だけ素直に向き合ってみたい。痛みも躊躇もひっくるめて受け止めながら、自分の心が熱を取り戻す瞬間を信じたい。そんな微かな覚悟が、バレンタイン直前の慌ただしい季節に埋もれながらも、静かに萌芽しつつあった。

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