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【前編】少年と逆さまの猫

【前編】少年と逆さまの猫
【後編】少年と逆さまの猫

光輝は小学六年生。通学路にある建築現場の前を毎日通るのだが、そのたびに目にする光景があった。鉄パイプや木材が積み上げられ、砂や砂利が山のように積まれている。その横に置かれた一輪車。これが、どういうわけかいつも逆さまになっているのだ。

そして、その一輪車の底の丸みをぼんやり眺めていると、ふいに猫の背中を連想した。いつかテレビで見た、うずくまって背を丸めた猫の姿とそっくりだ。しかも職人らしき人たちが「あのネコこっちに持ってきて」とか言っている。そもそも猫という生き物はそこにいないのに……と不思議に思うと同時に、なんだか面白い響きでもあった。

ある日、光輝は急な夕立に遭った。傘を持ってはいたが、強風を伴う雨で、あっという間にズボンのすそはずぶ濡れ。足早に現場を横切ろうとしたとき、かすかに小さな鳴き声が聞こえた。雨宿りをしている猫の声だ。 建築現場の隅に小さな野良猫がうずくまっている。グレーの毛並みに混じって所々に怪我の痕があるようで、光輝は思わず足を止めた。逃げずにこちらを見上げる猫は怯えてもいるが、どこか助けを求めているようにも見えた。

「大丈夫…?」

思わず問いかけるが、当然返事があるわけではない。それでも見捨ててはおけない。なぜだろうか、いつも現場で見かけるあの逆さまの“ネコ”を連想してしまったのだ。汚れたままだが、大切に扱われている様子にどこか愛着めいたものを感じていたからかもしれなかった。

そこへ、大柄な作業服姿の男が光輝を見つけて声をかけてきた。「おい、坊主、こんなところで何している?」急な雨で仕事を一旦中断したのだろうか、少し気の荒い口調だが、悪意はなさそうだった。

「この猫、怪我をしてるみたいで……」

 光輝が答えると、男は近づいて猫の様子を確認した。ひどくはないが擦り傷があるようで、放っておくとばい菌が入ってしまうかもしれない。すると男は少し困った顔をして、「うーん」と低くうなった。

「実はな、ウチの現場じゃ野良猫がよく迷い込むんだ。こいつも見かけたことあるが、逃げ足が速くて手出しできなかったんだよ。雨の日にここを選んだのは偶然か……ま、何か縁があるのかもな」

 男はそうつぶやきながら、光輝に向かって問いかけた。

「おまえの家、ペット飼えるか?」

 突然の言葉に光輝は返事に詰まった。実は両親は猫好きで、まじめにずっと飼いたいとは言っていた。しかし仕事で夜が遅いからと、飼うタイミングを逃していた。だからこそ、野良猫を家に引き取れるかどうか自信がなかったのだ。

「ちょっと、わかりません……。でも放っておくのはいやです」

男は腕を組み、「そりゃそうだよな」と一言つぶやくと、近くにあったジャケットを手にして猫をそっとくるんだ。そして光輝に向かって、言う。

「とりあえず様子をみるために、俺たちが車で獣医に連れて行ってやる。雨でこのままじゃかわいそうだしな」

光輝はほっと胸をなでおろす。見た目はちょっと怖いけど、この人は優しい人だ。猫の横で縮こまっていた光輝の体も、ジャケットを広げられた猫といっしょに少しだけあたたかさを取り戻していく気がした。雨音が激しさを増すなか、光輝は声をかけるでもなく、ただ猫の小さな呼吸を感じながら、頭を軽く撫でていた。目を閉じた猫は、かすかな安心を覚えているのかもしれない。

「それにしても“ネコ”って、どうして逆さまに置いてあるんだろう。」

光輝は気が抜けたように、前から気になっていた疑問を口にした。男は雨に濡れた額を拭いながら答えた。

「水がたまらないようにするんだ。ああ見えて、あいつは工事で砂やコンクリートを運ぶ大事な相棒。使わないときは逆さにするもんなんだぜ。まるで猫みたいだろ?」

確かにと光輝は思う。ちょうど猫が背を丸めて休んでいる姿に、あの深い形は似ている。雨が降り注いでもひっくり返しておけば、中は濡れない。道具ひとつに対しても手間を惜しまない姿勢に、光輝は少し感動を覚えた。

作業をする人たちにとって“一輪車”はただの道具ではなく、大切にすべきパートナーなのだろう。だからこそ「ネコ」という呼び名が生まれたのかもしれない。それは、本物の猫を気遣う気持ちとどこか通じるものがあるように思えた。

これを機に、光輝は職人さんたちと少し打ち解けるようになる。雨の日が去って、晴れた午後に現場を通りかかると、いつものように逆さまにされた“ネコ”が整然と並んでいた。プロたちが使う道具には、彼らの誇りと優しさが染み付いている。光輝は職人に向かって、「こんにちは!」と思い切り声をかける。男はちょっと不器用に手を挙げ、「昨日はありがとな」と返事をした。光輝が照れ笑いを浮かべつつ、にこりと笑うと、同じように笑みを返してくれた。

 そのとき光輝の頭に浮かんだのは、もちろん昨日助けた猫のことだった。

「うまく治るといいな……」

そこへ、別の作業員があわただしく走ってくる。何かを探しているらしい。

「おい、大河さん、“ネコ”が見当たらねえぞ!」「どこ置いたんだ……まさかまだ濡れたまま放置してるってことはないよなぁ!」

大河と呼ばれた男は、光輝のそばを通り過ぎ、現場の奥へ向かおうとする。すると、光輝は彼の後ろ姿が、昨日猫を抱きかかえたジャケット姿の男だと気づく。

「大河さんていうのか……」

いかにも頑固そうな雰囲気とは違い、猫への優しさを素直に見せてくれた人。きっと今日もどこかで、新しい“ネコ”を探しているんだろうか。いろいろと考えるだけで、光輝の胸はワクワクする。

やがて、大河は空の一輪車、つまり“ネコ”を発見して仲間に声をかける。「おーい、こっちだ! 誰だ、こんなとこに放りっぱなしにしたのは!」彼の荒々しい声に一瞬ぎょっとするが、どこか根底には優しさがにじむようだった。

光輝は作業員たちとすれ違いながら、「猫を救うためなら、僕にできることって何なんだろう」と思いをめぐらせる。ジャケットでくるんだ猫は今どこでどうしているのか、また会うことはできるのか――そんな期待が胸の中でふくらむのを感じた。

しかし、ここで光輝にはもう一つの心配事が浮かんだ。もし猫を家で飼うことになったら、家族はどうするだろう。両親は仕事で帰りが遅い。エサやトイレの世話は問題ないが、猫はさびしくないだろうか。それにそもそも、飼っていいかどうかもわからない。せっかく傷を治してもらっても、再び行き場を失ってしまったら……そう考えると胸が苦しくなる。

その日の放課後、光輝は意を決して建築現場に向かった。昨日の猫の経過を知りたかったし、何よりもう一度触れてみたいという気持ちもあった。想像よりもずっと繊細な、その身体の温もりを。

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