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本編
その週末。父と母、そして光輝の三人は、獣医に預けられている猫の様子を見に行くべく、午前中から支度を整えていた。外はあいにく曇り空で、いつ雨が降り出すかわからない。傘を持つかどうか迷いながらも、光輝は多少の雨なら構わないとばかりに駆け足で家を出る。
「気持ちが先走ってるわよ、光輝。転ばないでね」母に声をかけられながらも、光輝は早歩きを止めない。父も「そんなに急がなくても」と苦笑いを浮かべ、ついてくる。
しばらく歩いたころ、建築現場の前を通りかかった。土曜日とあってか、作業員はいつもより少ないように見える。ひっくり返された“ネコ”――一輪車たちが整然と並んでいるのが目に入り、光輝は少しほっとした。
「今日は静かだね。大河さんもいるのかな」ふとそうつぶやくと、奥からひょいと顔を出す人影があった。遠目に見ても、大きな体格が目立つ。それが大河だった。
「よう、今日は家族でお出かけか?」
そう声をかけられ、光輝はうれしそうに駆け寄る。父と母も少し緊張しながら近づき、「先日はうちの息子がいろいろお世話になりまして」と頭を下げた。大河は「いやいや、俺たちこそ猫の手当てができて助かったよ」と笑って手を振る。「これから病院に行くのか? なら、ちょうどいい。俺の車でまとめて行こう。ちょっと道がわかりにくい場所だからな」
断る理由も見当たらず、父たちは快くその提案を受け入れた。こうして急きょ、大河の運転で獣医のもとへ向かうことになった。車内は少し狭いが、大河の気さくな会話で和やかな雰囲気になる。
「でも意外だなぁ、家族総出で猫を迎えに行こうって話になるとは。坊主も嬉しそうじゃないか」
バックミラー越しに大河が声をかけると、光輝は小さく笑みを浮かべながら答えた。「父さんも母さんも、猫を前から好きだったんです。飼いたい気持ちはあったそうで……」
「そりゃいいな。本当はうちの現場の作業員も飼いたがってるやつがいてな。もし誰も引き取らないならウチに連れてきちゃおうか、なんて声まであったんだ」冗談交じりに言う大河だが、その表情は明るい。心の底から猫の行く末を案じてくれているのだろう。光輝はその優しさに感謝の気持ちを新たにする。
そうこうしているうちに、車は少し細い道へと入っていく。住宅街の外れに小さな看板が見えてきた。そこには「動物クリニック」と書かれた文字。扉を開けると、奥から白衣を着た女性の獣医が出迎えてくれた。受付カウンターには猫用フードやグッズが並び、少し緊張がほぐれる雰囲気だ。「こちらが、あの子を連れてきてくださった方たちですね」 獣医はにこやかに挨拶をしながら、治療の進捗を報告してくれた。猫の傷は思ったより浅かったものの、感染症予防のため投薬を続けているらしい。栄養状態も改善傾向にあるが、まだしばらくは安静が必要だそうだ。
「もし飼い主さんが決まれば、来週には退院してもいいかと思います」
その言葉が耳に届くと、光輝は思わず母を見上げる。母はきゅっと唇を結んで、意を決したように口を開いた。
「私たち、今はまだ確定ではないんですが……もし可能なら、うちで面倒をみたいと思ってます」獣医は「そうでしたか」と温かな笑みを返し、「退院までの間にご準備をお願いしてもいいですか?」と話を続ける。猫用のトイレや餌皿、キャットフードなど基本的なものはもちろん、怪我の具合を考えて、少し静かに過ごせるスペースも必要になるだろうという。
母と父は真剣な面持ちでうなずき、光輝もノートを取り出して必要なものをメモし始めた。大河がその姿を見て、少しからかうように笑う。
「しっかりしてるじゃないか、坊主。よし、じゃあ退院の日には俺も手伝いに行くから、このネコの“お引っ越し”を盛大に祝ってやろうぜ」
「はい!」
光輝は大きな声で返事をし、内心わくわくが止まらない。
その後、診療室の一角で猫に対面させてもらうことになった。小さなケージの中には、包帯の巻かれたグレーの毛並みの猫が丸まっている。先日よりも少し目がしっかり開いているようだが、まだ表情には警戒心が残る。それでも、光輝がゆっくりと指を伸ばすと、猫は細く短い声を出して鼻先を寄せてきた。おそらく、「この匂いを知ってる」という確認なのだろう。
「よかった……覚えてくれてたのかな」
光輝はじんわりと胸があたたかくなる。猫は無理に触られるのを嫌がる様子もなく、ただこちらを見上げている。父と母もまた、その光景を静かに見つめていた。
帰り道、父はスマートフォンでキャットフードやトイレグッズの情報を見るなど、頼もしい姿を見せた。母も「今度ホームセンターに行ってみよう」と早速計画を立て始める。そして光輝は、退院までの日々が待ち遠しくて仕方がなかった。ただ、猫を引き取った後のことがすべて順調とは限らない。猫はまだ治療中で、体調を崩しやすいかもしれないし、室内飼いのルールや生活リズムに慣れるまで大変かもしれない。
それでも、自分の行動が一つのいのちを支える形につながるかもしれないと思うと、光輝は大きな責任感とともに、なんともいえない高揚を感じるのだった。
翌日から光輝は、猫を迎える準備を着々と進めた。部屋の角にベッド代わりのクッションを置き、窓際で日光が当たりすぎないよう、カーテンも少し厚手のものに変えてみようかと検討する。母は料理が得意なので、猫が食べられる手作りレシピについてもこっそり調べているらしいが、まだまだ初心者なので焦ることはないだろう。
学校から帰宅したあとも、宿題そっちのけで部屋のレイアウトを変えてみたり、ネットで「猫の豆知識」をひたすら検索する毎日。父から「勉強もしろよ」とうながされるが、それでも夢中になってしまう。クラスメイトからは「なんか楽しそうだね」などと軽く冷やかされるほどだ。
日が経つにつれ、組み立てたキャットタワーやケージ、爪とぎなど、部屋の一角は猫用品でにぎやかになっていく。たった一匹の猫を迎えるというだけで、家の雰囲気がすっかり変わるのだ。父も母も忙しさの中に潤いを感じているようで、以前より会話が増えた気がする。
そして、ついに退院の前日。光輝は朝から気もそぞろで、「明日は朝一番に獣医に行かなくちゃ」とそわそわしていた。そんな彼の様子を見た父は、苦笑いを浮かべながらも、「じゃあ明日は早起きして準備しような」とうなずいてくれる。ふと、光輝は窓の外に並ぶ建築現場の“ネコ”の姿を思い出した。あの深い荷台が猫の背中に似ているという話。道具を逆さまにして雨水から守るという、ほんの少しの気遣い。それは、いのちを大切にする気持ちに通じるものがあるのかもしれない。
光輝自身、あのうずくまった猫に出会って以来、ちょっとだけ行動が変わった。机の上を片づけるときも、キッチンの洗い物を手伝うときも、「あとでいいや」と放り出すことがめっきり減った。ほんの些細なことだけれど、道具を丁寧に扱う大河の姿勢に影響を受けたのだろうか。それとも、猫に優しく接したい気持ちが、生活全般を見直すきっかけになっているのか。
「よし、明日は絶対寝坊しないぞ!」
光輝はそう決意して床につく。胸は高鳴り、なかなか寝つけそうにない。それでも瞼を閉じれば、そこには丸まって眠るグレーの猫の姿が想像できる。いつの日か、猫かベッドの上で、あるいは窓際で、安心して丸くなる姿をそっと撫でる時間が訪れるだろう――そう想像すると、ずっとつづいてほしいような、あたたかい幸せに包まれた。