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第六章:意外な再会と最後の手渡し
「玲奈…どうしてここに?」
沙都子は思わずそう口にしたものの、頭の中は混乱に近い状態だった。差出人不明のカードとチョコレート、そして「会いたい」という言葉が導いた先にいたのは、かつて離婚後の落ち込みの中でボランティア活動を通じて出会った女性――玲奈。視線の先に佇む彼女は、久しぶりに会うせいか、どことなく大人びたやわらかい笑みを浮かべている。
「ごめんね、驚かせたよね。ずっとあなたと直接話すタイミングを図っていたんだけど、メールや電話じゃ気持ちを伝えきれない気がして。そのうちバレンタインが近づいてきて…『今年は勇気を出して踏み出してみよう』と思ったの」
彼女はそう言いながら両手で小箱を持ち直す。すらりとした指先の動きに、どこか自信のなさそうな仕草が見え隠れしていたが、沙都子から見ると、確かな意思を感じさせる眼差しが印象的だった。
玲奈とは、沙都子が離婚後、一時的に気持ちを立て直すきっかけになればと参加した地域ボランティアで知り合った仲だ。当時、ボランティアメンバーは老若男女が集う多様なコミュニティで、玲奈はまだ二十代の若さながら、活動に熱心で献身的なタイプだった。沙都子のほうは、心に余裕がなく自分のことで手いっぱいだったので最初はそっけない態度を取りがちだったが、彼女のまっすぐな励ましに知らず知らずのうちに救われていた、そんな記憶がある。
しかし、ボランティア活動の終了や人生の再スタートに伴い、いつのまにか連絡を取らなくなり、疎遠になっていった。沙都子自身も仕事を言い訳にして交友関係を狭めていたから、いつしか玲奈の存在が頭から消えかけていたのだ。ところが、このバレンタインに再会し、彼女が匿名のカードを送り続けていたとは想像だにしなかった。
注文した紅茶の湯気が立ち上るテーブルを挟み、玲奈は小さく息を整えるように胸を上下させた。店内の照明が落ち着いた明るさを持ち、互いの表情をやわらかく照らしている。沙都子はやや緊張したまま、その言葉を待つ。
「あなたには感謝の気持ちがあって…それを、ずっと伝えたいなって思ってた。でも、ただ『ありがとう』と言うだけじゃ足りないような気がして。離婚後、笑うことも楽しむことも忘れかけていたときに、一緒に活動してくれたじゃない? そりゃあ最初は無理してるように見えたけど、あなたが一生懸命に人のために手を動かす姿に、私のほうが何度も勇気づけられていたの」
目を伏せながらそう語る玲奈は、当時の思い出を噛みしめるように口調をゆっくりとしている。一方で沙都子は、自分にそんな力があったのだろうかと不思議な気持ちになる。離婚後のどん底状態で、周囲の人の顔色をうかがいながらなんとか生きていた頃の自分が、誰かを救ったなんて到底想像できない。
「私が? あのときはむしろ、玲奈ちゃんに支えられてた側なんだけど…」
正直な思いを伝えつつ、沙都子は記憶を探る。当時のボランティア内容は高齢者のための食事配達や、地域の清掃活動など地道なものが多かった。最初は無心になって身体を動かすことで、離婚の痛みから少しでも逃れたい気持ちが強かった。知らず知らずのうちに、自分の傷ついた心を隠すために「誰かの役に立とう」と必死だったのが正直なところだ。
「でも私からすると、あのときのあなたは“まっすぐにがんばる姿”そのものだったの。空回りすることもあったけど、それでも『人に尽くすことをやめない』っていう気迫が伝わってきた。…私、正直そのときはすごく苦しくて、大学での人間関係や家族の問題とか色々あってね。でもあなたが凛として働いているのを見て、『私ももっと前を向いていいんだ』って勝手に励まされたんだ。ほとんど言葉にできなかったけど、本当に救われてたんだよ」
そう言いながら、玲奈は上目づかいに沙都子の様子をうかがう。まるで「こんな話、信じられないかもしれないけど…」という思いを込めるような、曇りのない瞳だった。沙都子はその視線を受け止め、軽く唇を噛む。思ってもみなかった再会は、思ってもみなかった告白を連れてきている。自分がつらさを紛らわすために参加していたボランティアが、玲奈にとっての大きな支えになっていたとは――。
「そんなふうに言われると、照れるけど嬉しいな…。私こそ、本当に何もかも手探りで、頑張ってたつもりもなかったけど」
「うん、だからいつかちゃんとお礼を言いたかったの。あなたが“もう一度人を信じてもいいんだ”って気持ちにさせてくれた。自分の苦しさをごまかさずに受け入れながらも、誰かのために行動しようとしている姿は、本当に尊敬していたの。…」
玲奈はそこで言葉を切り、意を決したようにカバンから小さな封筒を取り出した。そこには先日送られてきたピンクの封筒や白いカードと同じ雰囲気のレターセットが見える。彼女が差し出したそれを、沙都子は少し緊張しながら受け取った。
「いままでの手紙は、こうやって匿名で送ることで“待っている”時間を重ねたかったの。あなたが『えっ、誰からだろう』ってちょっとでもワクワクしてくれたら、近づくきっかけになるのかなと思って…。子どもっぽい方法だけど、本気だったの」
玲奈は恥ずかしそうにうつむきながらも、声には芯があった。手紙を開くと、そこには過去の思いがぎっしりと綴られている。最初のカードの「会いたい」という一言が、実は深い感謝と憧れをまとめた結びにすぎないということが伝わってくる。途中、「あなたがまだ人を好きになることを諦めないで」という文章もあり、読んでいて胸が熱くなる。
「そうだったんだ…。私はてっきり、誰かのいたずらかと思ってた。ごめんなさい。でも、どうしてこんな形で?」
思わず問い返す沙都子に、玲奈は小さく息を吐き、微笑む。
「いろいろ邪魔されたくない気持ちもあったし、社内の人からギョッとされたくもなかった。バレンタインに便乗する形にしたのは、もともとあなたが『バレンタインなんて…』ってちょっと冷めた感じで言ってたのを聞いたことがあって。本当はもう少しお互い素直になってもいいのにな、と思ったのがきっかけかな」
独りよがりかもしれない、とすぐに玲奈は付け足す。けれども、その行動力、あるいは一途な思いが、今の沙都子の心にしみわたるのを感じた。自分もまた、人とのかかわりを避けていた時期を経て、少しずつ前を向こうとしている最中だ。その歩みと絶妙にシンクロするように、玲奈はずっと「励ましたい」と思いながらタイミングを計っていたのだ。
「そっか…。私には何もできていなかったと思ってたけど、そう感じてくれてたなら嬉しい。ありがとう」
「こちらこそ、直接ちゃんと言いたかったんだ。ずっとありがとうって」
玲奈は軽く頭を下げると、持っていた小箱を差し出す。白い紙にハートの小さなシールが貼られた蓋を開けると、そこには形の異なるチョコレートが丁寧に詰められている。それらの裏側のパッケージにも「Thank you」の文字や小さなメッセージが添えられていた。
「わあ、可愛い……」
素直に喜ぶ沙都子を見て、玲奈は少しはにかむ。そして、箱の隅に小さな銀色の鍵が添えてあるのに気づいた沙都子がそっと指先で摘まむと、玲奈は言葉を探すようにあごを引いた。
「その鍵は、私が持っている貸しスペースのロッカーの鍵なんだ。いずれあなたともう一回ボランティアをやる日にでも、お互いが『いまを大切にする』ための目印にしようと思って…。まあ、ちょっとした自己満足かもしれないけど」
ロッカーの鍵――その存在は象徴的に思えた。誰かと何かを共有する小さな空間を開くための合鍵のように、未来の活動や思い出を一緒に紡ぐための道具にもなる。離婚という大きな喪失を抱え、過去の恋を清算しようとしていた自分とは対照的に、玲奈は最初から「これから」の扉を開こうとしている。
「私の扉を、もう一度信じて開いてほしいんだ。もしかしたら、恋愛とかそういうことじゃなくてもいい。誰かと手を取り合って何かを成し遂げたり、心を通わせたりするのは、いつだって大切だと思うから。あなたにはその資格があると思うんだよ」
玲奈の瞳は真っ直ぐで、そこには全く濁りのない感情が映っている。沙都子は心が温かく満たされていくのを感じた。離れていた時間や立場の違いを越えて、小さくても確かな「絆」を感じさせてくれる相手が目の前にいる。この瞬間、かつて夢中で追いかけた恋愛感情とは別種の強い結びつきがあることを知り、胸が震えた。
「ありがとう…。私、バレンタインって、もう過去の苦い思い出ばかり降ってくる日だったの。正直、今年も流してしまうつもりでいた。でもあなたのおかげで、こんなふうに驚いて、そして嬉しくなって、…昔の自分に戻ったみたいだ」
感極まって思わず涙が出そうになるのをこらえながら、沙都子はそっと箱を閉じる。そしてテーブルの向こう側へ、目を潤ませたまま微笑む玲奈に向かって、気持ちを込めた声を届ける。
「今はちょっと混乱してるけど、これからもう少し一緒に色々話そう。私、この先の毎日をもう少し信じてみたいと思ってる。もしあなたが誘ってくれるなら、また一緒にボランティア活動だっていいし、普通にお茶やランチをするだけでも、私の閉じかけていた扉を開いてくれるかもしれないから」
思いがけない相手との再会で、バレンタインの本質が変わっていく感覚がした。チョコレートはたしかに恋愛を象徴しているかもしれないが、それだけではない。人と人とを結ぶ“優しい甘さ”を携えて、沈んだ心を溶かし、新しい扉をノックする役割を果たすのかもしれない。それは恋愛でも、友情でも、あるいはもっと広い意味での人との繋がりでもいいはずなのだ。
しばらく二人はお互いの近況を話し合った。玲奈が就職して慌ただしい日々を送っていることや、沙都子が離婚後も転職せずに今の会社で頑張ろうと決めた経緯など、改めて言葉を重ねると、少しずつ距離が縮まり、心の奥底に温かい光がともっていくようだった。松下のことに触れたい気持ちも少しあったが、それはもう別の機会に話してみようと頭の片隅で思う。今は単純に目の前の再会が尊く感じられた。
「じゃあ、私、これからも連絡してもいい? 今夜はせっかくのバレンタインだし、一緒にごはん…といきたいけど、ちょっと家族の用事があるんだ。ごめんね…」
そう言って申し訳なさそうに微笑む玲奈に、沙都子は首を横に振って「ううん、私もまだ仕事絡みでバタバタするかもしれないし、また落ち着いたときにお茶でもしよう」と返す。その言葉を交わすだけで、未来の展望が穏やかに拓かれていく感じがした。かつては考えられなかった「期待感」だ。
あっという間に時間は過ぎ、カフェを出て外の夜風にあたると、通りにはバレンタインの夜を楽しむ人々の姿があちこちに見える。きらきらとした街灯がチョコのような温かな光を投げかけ、行き交う恋人たちや仲間同士の笑い声が聞こえてくる。玲奈はもう一度「ありがとうね」と名残惜しそうに別れの言葉を告げ、急ぎ足で駅の反対方向へと去っていった。
そうして一人残された沙都子は、しばしポケットの中に小さく収まったロッカーの鍵を握りしめる。そこに不思議な力が宿っているわけではない。それでも、この鍵がこれからの人生の新しい扉を開くかもしれないと思うだけで、胸がふわりと温かくなる。
思えば、お昼の松下との約束期待しながら結局叶わずに終わった。けれども、実際にはそれによって沈むというより、「過去に執着する関係ではなくなった」と確かに理解できた気もする。代わりに、未曾有のかたちで玲奈という意外な相手が現れ、自分の感情をグラリと揺らしてくれた。
恋愛と呼ぶべきか、友情と呼ぶべきか、あるいはもっと特別な絆なのか――それはまだわからない。だが、40代の自分がこんなにも胸を熱くして、一歩を踏み出そうとしている。その事実だけで十分に心が躍る。
空を仰ぐと、都会の夜空には星はあまり見えないものの、遠くに冬の澄んだ月明かりがかすかに浮かんでいた。バレンタインの特別な夜、そこに込められた思いや愛情は様々な形をとり、時には人の人生をそっと変えていく。つい先ほど沙都子に渡されたチョコレートは、その証拠のように手元で優しい香りを漂わせている。
「こんな経験も悪くないかもね…」
ポツリと独りごとを呟き、微笑む。いつもなら味気なく感じていたこの街の通りが、まるで祝福してくれているかのように思えた。過去の恋、今の苦悩、そして未知の関係――すべてが混ざり合いながら、新しい一歩を踏み出すための力に変わっていく。
この先、自分がどうしたいのかはまだ明確には見えない。けれども、もう“何も起きない日々”に潜んでいた諦めは崩れ去りつつある。バレンタインは特別な日かもしれないが、それを「自分を変えるきっかけ」にできるかどうかは、結局自分の選択次第なのだ――。
一人歩き出す足どりは躍るように軽かった。これまでの人生に起きたさまざまな苦みや痛みを糧にしながら、少しだけ背筋を伸ばして帰路へと向かう。そう、これで終わりではない。明日からの毎日に何か変化が訪れるかもしれないし、振り返れば思い出と呼べる何かが増えているかもしれない。
ふと、連絡をくれた松下のことも頭をよぎり、「慌ただしい出張になってしまったけれど、またいつか笑顔で会えるといいな」と思う。もう恨みがましく執着することもなくなった。手の中にあるチョコレートとロッカーの鍵が、そんな自分の未来を照らす小さなランプのように感じられる。
夜空に溶け込むように、沙都子は静かに目を閉じ、胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。そして小さくうなずいてから、先へと足を踏み出す。バレンタインはこの日限りで終わるが、その先の道をどう進むかはきっと自分次第だ。――そう確信しながら、軽やかな笑顔を浮かべて、これまでより少し高いヒールの音を鳴らしつつ、灯りのともる街へと溶け込んでいった。