第3章 「練習の挫折」
社有車専用の練習場は、かつて倉庫として使われていた広場を転用したものだった。初夏の陽射しが照りつける中、古びた白線の上で鬼塚の悲鳴が響く。
「あー!またエンストした!」
助手席の林が慌ててハンドルを支える。社有のマニュアル車は80年代製造の古い車両で、クラッチの遊びが極端に大きい。発進時のコツを掴むのが難しく、二人は朝から四苦八苦していた。
「西園寺さん、アドバイスを…」
鬼塚が助けを求める目で振り返ったが、西園寺は練習場の端で腕を組んだまま動かない。
「そうですね…もう少しクラッチをゆっくり戻してみては」
教本で読んだ知識を絞り出すように言葉を紡ぐ。実践的なアドバイスができないもどかしさに、胸が締め付けられる。
「でも西園寺さんなら、あの映像のように華麗に…」
その言葉に西園寺は思わず目を逸らした。創業者との"伝説の映像"は、すでに社内で広く知れ渡っていた。誰もが西園寺に熱い視線を送り、「かつての技術を見せてほしい」と期待を寄せる。
「申し訳ない。左足が…」
言い訳を口にしかけた時、支社長が現れた。
「おや、練習は順調かね?西園寺君、君も実践してみたらどうだ」
「いえ、今日は…」
「遠慮は無用だ。君の華麗な運転を、若手に見せてやってくれ」
逃げ場を失った西園寺は、渋々運転席に近づく。鬼塚が降りた後の座席は、汗で湿っていた。
シートに腰を下ろし、ハンドルに手をかける。その瞬間、23年前の記憶が鮮明に蘇った。教習所での失敗。恐怖で固まった足。焦りと羞恥に震える手。
「さあ、始めてください」
支社長の声が背中を押す。西園寺は深く息を吸い、おそるおそるクラッチペダルに左足を伸ばした。
しかし、足が動かない。いや、動かせない。まるで足首から先が氷で固められたかのように、ペダルに触れることすらできない。
「ちょっと調子が…」
慌てて言い訳をしながら、運転席から降りようとした瞬間。
「西園寺さん!」
林の声が響く。本社からの電話だという。全社マニュアル化計画の進捗確認のためとのこと。
「え、ええ。はい…練習は順調に…」
電話の向こうで、本社役員が満足げに告げる。 「来月には、報道陣を招いてデモ走行を行いたい。御社の優秀なドライバーである西園寺さんに、ぜひメインを務めていただきたい」
電話を切った後、西園寺は練習場の隅で静かに携帯を握りしめていた。太陽が傾きはじめ、長い影が地面に伸びている。
その夜、残業を終えた西園寺は、会社の駐車場で一人佇んでいた。社有のマニュアル車を見つめながら、バッグから取り出した古ぼけた教本をめくる。
「クラッチペダルは、ゆっくりと、しかし確実に…」
独り言のように呟きながら、左足を見つめる。痛みは、もはや心理的なものなのかもしれない。しかし、それを認めることは、これまでの自分の嘘を認めることでもある。
帰宅途中、信号待ちで隣に止まったマニュアル車。運転席の若者が軽やかにギアを操る姿を横目に見ながら、西園寺は深いため息をついた。
自宅のガレージに車を停める頃には、夜空に星が瞬き始めていた。玄関に向かう途中、西園寺は左足を引きずりながら、明日への不安を抱えていた。
時計は午後11時を指していた。明日も、また新たな嘘と向き合わなければならない。