第6章 「混乱」
月曜の朝、西園寺の机の上に一通の封筒が置かれていた。差出人は本社総務部。中から取り出した書類に目を通した瞬間、彼の顔が蒼白になる。
「湘南特設コースでのデモ走行、開催決定のお知らせ」
日時は来週の金曜日。業界メディアも招待され、会社の新規事業計画発表を兼ねた大規模なイベントになるという。そして驚くべきことに、メインイベントとして「伝説のドライバー 西園寺昇による、華麗なるドリフト走行」が予告されていた。
「冗談じゃない…」
声にならない呟きが漏れる。その時、後ろから声がかかった。
「西園寺さん、お時間よろしいでしょうか」
振り返ると、鬼塚と林、そして渋谷理々花が立っていた。
「話があります。屋上へ行きませんか」
風の強い屋上で、三人は順番に話し始めた。映像の不自然さ、プロジェクトの裏で動く不可解な金の流れ、そして本社取締役との関係。
「つまり、誰かが西園寺さんを利用して、この計画を強行しようとしているんです」 鬼塚が真剣な表情で言う。
「でも、なぜ僕を…」
「それは…」 理々花が一歩前に出る。
「祖父の日記に、ある出来事が書かれていました。23年前、西園寺さんと祖父が、あるサーキットで…」
西園寺の体が震え始める。誰にも話したことのない、あの日の記憶が蘇る。
創業者と共にサーキットを訪れた日。見学のつもりが、突然ハンドルを任されて。パニックを起こし、コントロールを失いかけた瞬間。創業者が咄嗟に制御を代わってくれなければ、大事故になっていたはずだった。
「君にはマニュアル運転への向き合い方を考えてほしい」
最後に創業者が言った言葉。しかし西園寺は、その意味を考える前に逃げ出してしまった。
「私、実は…」
告白しかけた時、支社長が屋上に現れた。
「みんな揃ってどうした?」 支社長の目が、特に理々花に対して鋭く光る。
「いえ、ちょっとした打ち合わせを」 鬼塚が取り繕うように答える。
「そうか。西園寺君、デモの件は受け取ったかな?期待しているよ」
去り際、支社長は意味ありげな視線を投げかけた。
その日の夕方、西園寺は練習場の隅で一人、社有車を見つめていた。ボンネットには既に会社のロゴが大きく貼られている。
「西園寺さん」
理々花が近づいてきた。
「あの日のこと、話してください」
夕陽に染まる練習場で、西園寺は初めて誰かに打ち明けた。マニュアル運転への恐怖、23年間の嘘、そして左足の痛みの正体を。
「でも、祖父は最後まであなたのことを信じていたんです」 理々花は古い手帳を開く。
「『彼は怖がりだが、誰よりも安全を大切にする。その姿勢は、いつか必ず報われるはずだ』と」
西園寺の目に、涙が浮かぶ。
「私にはできない。クラッチなんて、もう二度と…」
「できないことを認めることも、大切な勇気です」
その言葉が、23年間凍りついていた何かを溶かし始めた。
夜の練習場に、エンジン音が静かに響く。