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第1章 「左足の痛み」
営業三課の西園寺昇の机は、いつも埃っぽかった。
窓際の一番奥、誰も通らない場所に35年も居座り続けているせいだろうか。午後の陽射しが差し込むと、机の上を漂う埃が輝いて見えた。
「西園寺さん、この資料、コピーお願いできますか?」
若手社員の声に顔を上げると、相変わらずの笑顔で林が立っていた。入社3年目の彼は、西園寺のことを「温厚なおじさん」程度にしか認識していない。それは別に悪いことではなかった。
「ああ、いいよ」
立ち上がった瞬間、左足に鈍い痛みが走る。西園寺は無意識に顔をしかめた。
「また足ですか?」 「ん、ちょっとね」
この痛みの始まりは23年前に遡る。当時、西園寺は運転免許の更新を前に、MT(マニュアル)からAT(オートマチック)限定に切り替えようかと悩んでいた。
教習所での縦列駐車。クラッチを踏み込んだ瞬間、タイミングを誤って後ろの車に接触しそうになった。咄嗟のブレーキで事なきを得たものの、その日を境に左足に激痛が走るようになった。
医者に診てもらっても原因不明。結局、「クラッチが踏めない」という言い訳とともに、ATに逃げ込んだ。それ以来、西園寺は一度もマニュアル車に乗っていない。
「でも不思議ですよね。普段は全然痛そうに見えないのに」
コピー機の前で林が言う。確かにその通りだった。歩くのも走るのも問題ない。ただ、クラッチを踏もうとする瞬間だけ、まるで呪いのように痛みが襲ってくる。
「年寄りの冷や水さ」
自嘲気味に笑って誤魔化す。この手の会話には慣れていた。
そんな平凡な午後、支社長室から呼び出しがかかった。
「西園寺君、ちょっといいかな」
支社長の机上には分厚い企画書が置かれていた。表紙には「全社マニュアル化計画」という文字。
「実はな、本社から新しいプロジェクトが降りてきたんだ。海外の古い輸送ラインを買収する計画でね」
西園寺は胸の奥で嫌な予感が膨らむのを感じた。
「現地はまだマニュアル車が主流でね。我が社もそれに合わせる必要がある。ついては…」
「申し訳ありません。私は左足が…」
「いや、むしろ君だからこそ適任なんだ」
支社長は意味深な笑みを浮かべた。
「このプロジェクト、君にリーダーをやってもらいたい。成功すれば昇進も約束する」
「えっ?」
「営業主任の鬼塚と、若手の林を付けよう。3人で進めてくれ」
断る暇も与えられず、西園寺は突如としてプロジェクトリーダーに任命された。左足の痛みを理由に断ろうとしたが、支社長の熱意は異常なまでに強かった。
帰り際、支社長は「君なら必ずやれる」と力強く背中を叩いた。なぜそこまで確信があるのか、西園寺には理解できなかった。
その日の夜、遅くまで残業した西園寺は、社用車のアクセルを踏みながら考え込んでいた。AT車の加速は滑らかで、左足は何の痛みも感じない。
しかし、このままでは必ず破綻する。プロジェクトリーダーがマニュアル車を運転できないなんて、誰が信じるだろう。
「どうすれば…」
つぶやきが車内に溶けていく。ダッシュボードの時計は午後10時を指していた。明日から始まる混乱を予感させるように、街灯が不気味な光を投げかけていた。