エピソード8: 夜の訪問者と失われかけた希望
廊下で響く足音は、こちらへゆっくりと近づいてくるようだった。愛とソラは顔を見合わせ、視線で会話をする。扉の向こうに人影が動く。愛は息を詰め、ソラも緊張のあまり装置の裏側に身を屈めた。その瞬間、鍵穴に何かが差し込まれるカチャリという音が聞こえ、ドアがわずかに開いた。
「……誰かいるのか?」と低い声がする。
愛とソラには聞き覚えのある声——プログラミング部の顧問、神谷先生だった。
まずい。ここで見つかったら最後だ。それにこの量子コンピューティングの試作品まで見られたら、学校の規則違反どころか、研究者レベルの騒ぎになってしまうかもしれない。愛たちはとっさに動けずにいたが、先生の足が部屋に入ってきそうな気配はない。
「あれ……?」と少し疑わしげな声が聞こえたものの、廊下の照明が弱いせいか、中の様子ははっきり分からないようだ。続けて、「まったく、こんな時間に……」という独り言が聞こえ、やがてキーを戻してドアを閉める音がした。
足音は遠ざかり、静寂が戻る。愛は肩の力が一気に抜け、ほっと小さく息を吐く。「危なかった……」ソラも胸をなでおろしながら、しかしすぐ画面のほうに目をやった。「大丈夫そう……リタ、落ちてない?」急いでログを確認すると、リタのプログラムはまだ辛うじて動作を続けている。だが負荷が限界に近いようで、エラー警告の文字が頻繁に上がっている。
「今、電源を落としたらリタにとってダメージが大きすぎる。もう少しだけ……もう少し耐えて……」
愛は祈るようにモニターを見つめる。けれど次の瞬間、画面がバチッと弾けるようにノイズが走り、赤いエラーメッセージが大量に点滅する。ソラが慌ててキーボードを叩くが反応は鈍い。ついに“落ち”てしまうのか。愛は絶望感に襲われた。結局、半ば未完成のままリタは消えてしまうのだろうか。
やがて大きなフリーズ音が鳴り、画面は真っ暗に沈黙した。愛は何もできず、ただ呆然と画面を見つめる。真っ暗な画面はリタがいなくなったことを端的に告げているようで、胸の奥が締め付けられる。「リタ……ごめん……私たち、間に合わなかったね……」涙が浮かびそうになる。
しかし、ソラはあきらめなかった。「まだ終わりじゃない。リタのコアデータが消えたわけじゃないんだよ。うまくファイルが壊れてなければ、再起動の手段はある……」そう言いながら、残されているログファイルをかき集め、手動で修復できる組み合わせを探し始めた。