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【後編】40代からのバレンタイン

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バレンタイン当日の夜、少し早めに家へ戻った沙都子は、玲奈から受け取ったチョコレートの箱と小さな銀の鍵をテーブルの上に並べて眺めていた。仕事から帰ってきて一息つくと、先ほどまでの喧噪が嘘みたいに部屋の中は静まり返っている。灯りをつけて改めて小箱のリボンをほどくと、そこにはハート型や粒状のチョコが可愛らしく並び、裏側には小さなメッセージが書き込まれていた。そして鍵を指先でつまみ上げると、金属の固さがやけに心地よく、ささやかな重みを感じる。

実を言えば、昼間のうちに「松下と会えなかった」という事実は、心のどこかでひっかかっていた。せっかく大切な会話ができたのに、結局バタバタとすれ違い、「また連絡するね」というメッセージだけが残されたままになってしまったのだ。だが、玲奈という意外な相手との再会がその思いを上書きし、バレンタインって単に“恋人同士の甘い日”ではないんだと気づかせてくれた。恋愛に限らず、人間同士の優しいつながりを考えるうえで、一つの小さな“火種”にもなる特別な日。それがこのバレンタインという季節なのかもしれない――。

ソファに腰を下ろし、柔らかなクッションにもたれかかりながら、沙都子は今日という日を少しずつ振り返ってみる。振り返ると、朝の時点では松下と昼休みに話し込み、その“過去の清算”をきちんと終わらせるつもりだった。実際、彼が手渡してくれたチョコレートと穏やかな言葉は、これまで抱えていたわだかまりを自分の中で小さく解きほぐしてくれた。あの会話は確かに必要なプロセスで、長かった“過去の恋”への一つのケリをつけるような感覚があったからだ。

けれどもそのタイミングがずれ、昼休みの約束はすっぽかされる形になってしまった。もちろん事情は仕方ないと思っていても、どこかで“ちゃんと終わらせたい”という気持ちが消えずに残っていたのは確かだ。しかしそのままマンネリな一日で終わるはずのバレンタインが、結果として大きく方向転換を遂げたのは、あの夕方の謎の待ち合わせがほんの少しの勇気を後押ししてくれたおかげだったのだろう。もし「怖いし面倒だからやめておこう」と思っていたら、玲奈との再会は実現しなかった。その先にある小さな気づきや優しい熱も、きっと味わうことはなかったに違いない。

身近な人との再会が必ずしも“ときめく恋”に結びつくわけではない。だが、バレンタイン当日にわざわざチョコを用意し、自分と向き合おうとしてくれたその行為には、大きないとおしさがある。松下のように「結婚した今も、あのときの時間を大切に思っている」という形もあれば、玲奈みたいに「あなたという存在が私を救ってくれた」という気持ちを伝える形もある。それはどれもが“人を想うこと”の証拠だし、沙都子にとってはずしりと響く贈り物だった。

「これからの私の人生、意外と捨てたもんじゃないかもしれない」 思わず、その言葉が唇の動きとともに小声で漏れた。もしもこのまま淡々と“過去を整理しきれないまま”時間だけが過ぎていったら、次第に自分を信じる力も弱っていったかもしれない。けれども、松下は結婚という形で幸せを手にしながら、その過去を否定することなく、一つの宝物として届けてくれた。そして玲奈もまた、かつての自分が燃え尽きかけていたのを“消し去る”のではなく、そこに少しだけ光を当ててくれたのだ。

離婚後の空白期間を長く感じていたが、こうして思い返せば、それも含めて自分の人生なのだと腑に落ちてくる。沈みきった夜もあったし、なりふり構わない時期もあったが、そこで自分が行った小さな行動が誰かにとっての大切な瞬間になっていた――それは「生きていくこと」に後ろ向きだった沙都子には、想像もつかなかった可能性だ。

そして今、ふと目をやると、テーブルの上に「二つのチョコレート」が静かに鎮座している。一つは松下からのもの。もう一つは玲奈が改めて差し出してくれたもの。形も味も違うチョコが、まるで沙都子の過去と未来を象徴しているかのような気さえしてくる。

松下のチョコは、かつて心ときめいた恋の残照を穏やかに温め直してくれるようだ。過去を受けとめながら、人生のページを一つ閉じるための手助けをしてくれたのかもしれない。それを「ありがとう」の気持ちで口にすれば、かつては苦かったはずの思い出が、甘くやわらかな形に変わっていきそうな気がする。

一方で玲奈のチョコは、いままさに未来へと続く扉を開くきっかけだ。友情かもしれないし、憧れや尊敬の延長線上の絆かもしれない。でも、いずれにせよ「もう一度だれかを信じてもいいんだ」という確信を灯してくれる存在なのは間違いない。小さな銀の鍵とともに、これから先の道を照らしてくれるように感じられる。

「この先に、まだ知らない私自身がいるかもしれない」

そう確信を持てるようになったのは、長年勤め上げてきた会社や、離婚後も続けてきた仕事だけが理由じゃない。誰かが自分へそっと注いでくれた気持ちが背中を押してくれたからだ。バレンタインという日が“華やぎ”とともに巡ってくるのは商業イベント的な側面があるかもしれない。けれども、その本質はやはり「相手を想う気持ちに向き合う日」であってほしい、と沙都子は思う。

ソファから立ち上がり、控えめな照明をつけたままキッチンへ向かうと、少しお腹が空いていることに気がつく。仕事や感情の動きでバタバタしていた一日だったが、ようやくほっとできる時間を迎えたのだ。シンクに向かって簡単にミネストローネを温めなおし、その湯気を楽しみながら小さなパンをかじる。

かつては独りで食事をすることに寂しさを感じていた時期もあった。しかし今日はなんだか不思議と心細さがない。頭の中で松下や玲奈、職場の同僚たちの顔がめぐり、どこか賑やかな気分にさせてくれるからだ。

「これから先、本当に何かが変わるかどうかはわからない。それでも、こうして『いま』をしっかり味わうことはできるんだな」自分が沸き立つ想いに久しぶりに素直になれた気がして、沙都子は鼻歌まじりでスープをすすった。どこか歌詞付きの曲が流れてきてもおかしくないような、軽やかな気分だ。

食事を終え、ほどよい満腹感とともにリビングへ戻ると、テーブルに置いたままの二つのチョコレートが再び視界に入る。少しためらった後、まずは松下からのチョコを開けて、一粒を口に放り込んだ。チョコレート特有の甘い香りと豊かな味わいが舌の上でとろけ、カカオのほろ苦さがじんわりと広がっていく。

目を閉じると、当時の松下との関係性、そして先日会話を交わしたときの穏やかな空気感がぼんやりと蘇る。きっともう、深い恋心ではない。惹かれ合うようなドキドキも薄れている。でも、“大切な時間を共有した相手”としての存在はしっかり胸に根付いていて、それがこのチョコの味わいと相まって懐かしい温もりをもたらしてくれる。

「ありがとう、松下さん。あなたもきっとあの頃の私を忘れていないって言ってくれたけど、私ももう少し応援していたいな…あなたの人生を」

声に出してひとりつぶやき、パッケージをそっと閉じた。別に人に聞かせるためではなく、自分の中にあったわだかまりをやさしく手放すような行為だった。

そしてもう一方、玲奈からのチョコを開ける。彩り豊かな形をした粒が並んでおり、その裏やパッケージには小さなメッセージやスタンプがあしらわれている。「Cheer up!(元気出して)」「You can do it!(あなたならできる)」――そんなポジティブな言葉が並んでいて、思わずくすりと笑みがこぼれる。

一粒を口に入れると、ほんのりとフルーツの風味が混ざった甘酸っぱいテイストが鼻から抜けていく。先ほどの松下のチョコとはまるで違うタイプだが、それもまた新鮮で、何より「これから」を象徴するかのような軽快さがある。差し込まれていた小さなメモに「あなたの心がもう一度動き出すきっかけになりますように」と書かれた文字を指先でなぞれば、玲奈の優しい声が耳元に蘇る気がする。

「もう一度、心を動かしてもいい。それが恋でも友情でも、そのほかの何かでも私次第だよね」

無意識のうちにうなずいた沙都子は、この不思議なバレンタインに訪れた出会いと再会に、改めて感謝の念を抱いた。まるで、過去と未来を結ぶ小さな橋を、二つのチョコが作ってくれたように思えてならない。

時計の針が夜の深い時間を差し示す頃、窓の外はしんしんと冷え込んでいる。もうすぐバレンタインという特別な一日が終わりを告げ、新しい朝がやってくる。沙都子は部屋の明かりを落とし、ゆっくりとベッドへ向かった。

離婚の傷跡は完全には消えないかもしれないし、職場での人望や信頼を維持するのも従来以上に大変になるかもしれない。けれども、一度失われかけた“誰かを想う気持ち”や“未来への期待”は、また小さく息を吹き返し、心の中に小さな火を灯してくれている。

ベッドに横になり、まぶたを閉じると、松下の穏やかな笑顔と玲奈のまっすぐな瞳が交互に浮かぶ。どちらも沙都子にとって宝物のような存在だ。それぞれ別々の意味を持ちながら、今日のバレンタインは、それらの感情をひとつに包み込むような温かさをもたらしてくれた。

「きっと、これが終わりじゃなく、始まりなんだろうな」

微睡みの中で誓うようにそう思う。どれだけ人生を遠回りしても、諦めさえしなければ新しい明日と巡り合える。40代という年齢だろうと、過去の失敗があろうと、再び誰かを想い、行動を起こす資格はある。ちょうどバレンタインが象徴する甘やかなきらめきが教えてくれた通り、“人を想うこと”に年齢や境遇の制約はないのだ。

少しだけ高揚した心を落ち着かせるため、深呼吸をして布団を引き寄せる。長い一日が過ぎ、また新しい一日が始まる。明日、会社ではチョコの後片付けや「今年はたくさんもらいすぎて太るよ」などという軽口が飛び交うだろう。玲奈とは早速メッセージを送り合ってみようか。松下にもお礼を伝えるメールをしてみたい。

「もう一度、生きることを楽しんでみよう」

そんなささやかな決意が、部屋の隅に飾られた花のように心の奥で静かに咲き始める。チョコレートは、うやうやしく端に飾るのでも、昔のように情熱的に贈り合うのでもなく、ただ一息つきたいときにいつでも味わえる存在として、これから先も沙都子のそばで小さな甘さを放ち続けるに違いない。

そして、もしまた自分の心が固く閉ざされそうになったときは、この小さな鍵と一緒に、その扉を開く努力をしてみればいい――そう思うと、遠くで何かがきらりと光り、これまでにないほど清々しい気持ちで眠りに落ちていくことができそうだ。

バレンタインは印象的な一日になった。だが、人生の本質はその特別な日の先にある日常でこそ試される。沙都子は、今夜を境に少しだけ人生を前向きに捉えられるようになった手応えを感じている。泣くことも、笑うことも、ひょんなことから生まれる巡り合わせも、すべては糧になるのだ――。

過去から受け取った優しい甘さと、未来へ開く扉を示唆する濃厚なチョコレート。ふたつの味わいを噛みしめながら、彼女は静かに目を閉じる。いつかの日常のなかで、次の一歩を踏み出す瞬間がきたなら、きっとこのバレンタインの余韻が背中を押してくれるだろう。

AI.Narumi
AI.Narumi

次ページにて本作品についての反省点を。

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