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【中編】40代からのバレンタイン

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バレンタイン当日の朝は、いつもと同じように忙しなく始まった。身だしなみを整え、いつもの時間帯の電車に乗り込み、オフィスビルへと向かう――そんなルーティンの背後で、沙都子の胸の奥には小さな緊張が拡がっていた。今日は「二つの約束」がある。ひとつはかつての恋人であり、仕事仲間でもあった松下との昼休みの約束。もうひとつは、差出人不明のカードの呼びかけに応じて向かう夕方の待ち合わせ。そのどちらにも「チョコレート」が関わっている。

オフィスのフロアに着いた瞬間、ふと周囲を見渡すといつも以上に落ち着かない空気が漂っているのを感じた。机の上には小さな包みや紙袋が並び、少しそわついた表情で男性社員たちにそれらを手渡す女性社員もちらほら。バレンタインとはいえ、これほど華やかな雰囲気は久々かもしれない。世間的には「義理チョコの是非」などが話題になりがちだが、会社という小さな共同体のなかでは「日常を少し彩るイベント」くらいの感覚で捉えられているようだ。

一方で、沙都子のデスクにはまだ何も目立ったものは置かれていない。自分も特に大々的なチョコ配りはしていないし、後輩たちにも「夕方まとめて渡すからね」と軽くアナウンスしてある程度だ。大事な用事が二つも控えている今日、朝から浮足立つわけにはいかない。それでも内心は、次々に鳴る電話やメールの通知に邪魔されながらも、自然と時計を気にしてしまう。昼休みまであと数時間。「早く来てほしいような、もう少し待ってほしいような」、そんな二律背反の感覚が落ち着きを奪っていく。

午前中、部署内ではバレンタインデーの流れに乗じてちょっとしたイベントが行われていた。社員有志が作った手作りチョコレートを配布したり、まとめて購入した菓子をコーヒーや紅茶と一緒に振る舞ったりする光景が広がる。いつもなら微笑ましく参加する沙都子だが、今日はどうも心ここにあらずで、形式的に「いただきます」と口にするくらいが精一杯だった。

「三沢さん、今日は大人しいですね~」と後輩に茶化されても、「ちょっと考えごとしててね」とはぐらかすのがやっとだ。もちろん明らかに挙動不審になるほどではないが、自分としては「こんなことで動揺している自分が不思議だ」という思いがある。バレンタインで胸が高鳴るなど、離婚後ずっと封印してきた感覚のはずだった。

そうこうしているうちに、あっという間に昼休みの時間がやってきた。松下からのメールは「12時10分に会議室で」という具体的な打ち合わせ時間を示していたが、その数分前になっても一向に彼の姿が見えない。そわそわしながら廊下で立ち止まっていると、同僚の女性が声をかけてきた。

「沙都子さん、松下さんならさっき上のフロアへ行きましたよ。お客さんが急に来社されたとかで、対応しないといけないって」

「えっ、そうなんだ…」

嫌な予感がかすめる。外部の取引先が突如として訪問してくることは珍しくないし、出張中の松下がその対応を任される可能性もある。だが、昼の貴重な時間は限られている。もしそのまま長引いてしまえば、今日中に話せなくなるかもしれない。彼の予定はバレンタイン当日が終わる前に本社を出ると聞いていた。一体どうなるのだろう――。

しばらく待合スペースで待機してみるも、連絡は入ってこない。時計の針は12時半を回り、心中の焦りは加速していく。ただ、松下が仕事に追われるのは仕方のないことだ。沙都子自身もかつて営業の現場を経験したことがあるからこそ、その大変さはよくわかる。こういうときにそわそわするのは、まるで10代みたいだと自嘲する一方で、「あのチョコレートのこと」をどう締めくくるのかが気がかりでもある。

昼の後半になってようやく内線が鳴った。松下からの着信ではなく、総務部からの連絡だ。要領を得ないまま「はい、わかりました」と受け答えをしながら、沙都子は「松下ではないのか…」と少し肩を落とす。実際、昼休みも残りわずか。足を組みかえながら廊下の椅子で待ち続けるのも限界がある。とりあえず社員食堂で軽く昼食だけは摂ろうと考え、渋々その場をあとにした。

社員食堂はバレンタインの特別メニューか何かがあるのかと思いきや、意外といつも通りの定食が並んでいるだけだった。少しほっとしつつも、冷たいサラダに箸をつけながら、沙都子はスマホをちらちら確認する。しかし松下からは何の連絡もない。胸中で「仕事だししょうがない」と諦めようとしても、ぐずりのように残るモヤモヤ感。それが苛立ちに変わる前に「もう午後からの自分の仕事を頑張ろう」と割り切ろうとするが、気持ちはうまくいかない。

食堂の端では女性社員同士が「今夜は彼にチョコを手渡すんです」と嬉しそうに話していて、まるでドラマのように恋バナで華やいでいる。そんな光景を見ていると、昔なら自分も楽しめたはずなのに、今はちょっと憂鬱な気分になる。松下とは過去にケリをつけたはずとはいえ、さっきまで「ありがとう」を伝え合ったばかり。締めくくりをきちんとしないままバタバタと別れてしまうのは落ち着かない。

やがて昼休みが終わりを迎え、午後の勤務開始を告げるチャイムが鳴る。会議室まで様子を見に行く余裕はなく、そのままデスクに戻るしかなかった。再び山積みの案件と向き合う中、沙都子のスマホがかすかな振動を発しても、そちらにかまう暇もない。少し遅めの時間に一度、ちらりと画面を見てみたが、来ているのは請求書関連のメールだけ。松下の名前はどこにもない。

「もしかして、今日もう会えないのかな…?」

自分がここまで落ち着かないのは、もしかしたら松下本人というより、この日を迎えるまで積み上げてきた“新しい一歩への期待感”がしぼみそうで怖いからかもしれない。彼がせっかく用意してくれたチョコレートをどんなふうに受け止めたのか、気持ちをまともに伝えるだけでもいいから会いたかった。しかし、その思いは仕事の前には無力に等しい。

そうして午後が過ぎていく中、時間は着々と進み、あっという間に夕方を迎える。窓の外は少しずつ暗くなり始め、周囲もバタバタと退社準備に入る時間帯。すると、今度はスマホではなく社内のチャットがピコンと通知音を立てた。

「すみません、急なお客様対応で手が離せず、今もまだ抜けられない。今日のこと、申し訳ないけど後日に持ち越せるかな? 19時の新幹線で戻らないといけなくて…。本当にごめん。 松下」

表示された文面は簡潔で謝罪の言葉が並んでいるだけ。不思議と目の奥が熱くなる気がした。ずっと心待ちにしていたのに、結局こういう形で終わってしまうのか、と落胆がこみ上げる。もちろん、彼が悪いわけではないと頭ではわかっているし、仕事の都合であればどうしようもない。けれど、一度生まれた「またきちんと話したい」という希望が断ち切られたようで、虚しさが募る。

「仕方ないわよね…」

そっと息を吐き、パソコンに向き直ろうとする。だが、その瞬間、夕方の約束を思い出した。差出人不明のカードの呼び出し、○○駅前のカフェで18時の待ち合わせ。あまりの落ち込みようで頭から飛んでいたが、そちらは時間が迫ってきているではないか。

「どうしよう。もし本当に誰かが私を待っているとしたら…」

正直まだ少し迷いはあった。相手の正体がわからない状況で会うのは危険かもしれないし、もしかしたら悪質なイタズラかもしれない。だが、松下との件が流れてしまった今、自分の中に空いた隙間を埋めたい気持ちもどこかにある。結局、あれだけ“あなたと会いたい”という内容のメッセージを重ねて送ってくれたのだから、答えを出さずに終わるのも落ち着かない。「かえって余計な胡散臭さが残るだけなら、いっそ直接確認した方がいい」と思い始める。

沙都子はそっと立ち上がり、パソコンを簡単にシャットダウンして鞄を手に取った。定時を少し過ぎた頃ではあるが、今日の業務はほぼ片付いている。くるりと席を離れ、廊下に出ると、ちらほら「お疲れ様でした」と声をかけられた。上司に軽く目で挨拶をしながらエレベーター前で待機し、扉が開いたら乗り込む。――いつも帰りのエレベーターでは一日の疲れが襲ってくるはずなのに、今日はどこか身体が軽い。心の中は不安と好奇心、ほんの少しの期待で満たされている。もし今日だって空振りでも、それはそれで仕方ない。そんな覚悟めいた感情を抱きながら、沙都子は会社を出て駅へと向かった。

電車を乗り継いで○○駅に到着したのは17時50分を少し回ったころ。改札を抜け、目印として指定されていた駅前のカフェを探す。ビルの谷間にぽつりと立つそのカフェは、気軽に利用できるチェーン店とは違い、少し落ち着いた雰囲気を醸している。ガラス張りの外観から見える店内は、夕刻ということもあって空席がちらほらある状態だ。

「ここ…だよね」

恐る恐るガラスドアを引き、中へ入る。コーヒーの香りが漂う空間は、人がまばらで静かだ。店員に声をかけられるまま、奥のテーブル席に腰を下ろすと、まずは紅茶を頼んだ。もちろん、差出人がどのように声をかけてくるかもわからない。もし来なければ、紅茶を飲み終わったら帰るだけ。そんなふうに考えて自分を落ち着かせる。

時計の針は約束の18時を指そうとしている。しかし、周囲に知った顔は見当たらない。ひとりか、あるいはグループかすらわからないが、それらしい視線を感じる気配もない。外の景色は夕闇に染まり、行き交う人々の姿は通り過ぎるシルエットとして映りこむだけだ。――まさか本当に、何の手がかりも得られないまま終わってしまうのか。自身の軽率さを嘆きつつ、少し不安が胸をよぎった。仕事終わりの貴重な時間を何に使っているんだろう、と自嘲してしまう。結局、松下との再会にもタイミングを逃し、この差出人不明の呼び出しも無意味――。

だが、そのとき、カフェの扉がそっと開く音がした。ちらりと目を向けた沙都子は、まったく予想しなかった相手が入ってくるのを目撃し、思わず息を飲む。「え…どうして、あなたが…?」

そこにいたのは、ボランティア仲間の玲奈だった。離婚後、沙都子が積極的に人との接触を避けていた時期に、細やかな励ましをくれていた女性だ。確かに一時期は一緒に活動に励んでいたが、最近はめっきり連絡を取っていなかった。まさか彼女が差出人だなんて、微塵も考えていなかったのだ。

玲奈は驚く沙都子に、小首を傾げて微笑みかける。手には小箱を持っていて、その様子から推測するに、これが差出されたチョコレートにつながるのかもしれない。言葉を失う沙都子の前に、彼女はテーブルを挟んで座り、控えめな声で口を開く。

「久しぶりだね。びっくりしたよね、ごめんね。実はずっと、あなたに伝えたいことがあったんだ」

胸を大きく揺さぶられるような感覚が押し寄せる。松下ではないかと疑ったり、あるいは他の誰かと妄想したりしていた全部が的外れだったことに気づき、同時に「この再会は一体何を意味するの?」という戸惑いがこみ上げる。

あの日届いた「会いたい」というカードの正体が、そしてバレンタインに差し出されたチョコレートの真意が、この女性との間に隠されていたのだろうか。沙都子は思わず息を呑む。何もかも想定外すぎて混乱するが、それと同時に、「玲奈とこんな形で再び向き合うことになるなんて」という不思議な運命を感じずにはいられない。

世界が一度停止したような静寂が、カフェの店内を包む。外のビル群の光が窓ガラスに揺れ、店内の照明が混ざり合って、玲奈の姿を柔らかく照らし出している。固唾を飲む沙都子を前に、彼女は心なしか緊張しているようにも見えた。――「きっかけ」を求めていたときに出会ったボランティア仲間。今まで想像もしなかった相手が、今の自分の心を大きく揺らそうとしている。そして、自分はそんな予測不能な瞬間を、悪くないと思っている。ほんの少し前までは、置き去りにしていた感情。

この「すれ違いの午後」の末に、沙都子が手にするものは何なのだろう。松下との再会は果たせなかったが、それも含めて、人生の分岐点がいま目の前で動き出しているのを感じる。帰り道の足取りはどんなものになるのか、いまはまだ予測もつかない。ただ、バレンタインが終わる頃には、自分の心はきっともう少し前向きに燃えているはず――。そんな予感が、胸の奥で小さく灯り始めていた。

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