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【中編】40代からのバレンタイン

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翌日、沙都子はいつもより幾分早く目を覚ました。薄いカーテンの向こうでまだ朝陽が昇り切っていないのを確認すると、布団の中でもぞもぞと身を起こし、枕元のスマートフォンを手に取る。既読スルーのリマインダーや仕事の通知をチェックしながら、ぼんやりと今日の予定を思い浮かべていた。

――バレンタイン前日。

明日はついにあの日がやってくる。毎年なら「会社で義理チョコを配る日」程度の認識で終わっていたのに、今年はここまで大きな意味を持つとは思っていなかった。松下との再会や、謎の手紙のことがちらつき、胸がそわそわ落ち着かない。しかも昨日の彼との会話も、何か含みを残したままだった。「渡したいもの」が具体的に何なのかを聞きそびれてしまったばかりか、匿名のカードやメールとの関連についてもまったく掴めていない。

緩やかに身体を起こして洗面所へ向かうと、鏡に映る自分の顔は少しこわばっていた。シャワーを浴びて軽くストレッチをしても、心のざわつきはどこか拭いきれない。だが、同時にこの緊張感は決して嫌なものではない。“わからない未来”へと自然に足が進む感覚は、むしろ妙に懐かしくて、くすぐったい。

慌ただしい朝の支度を終え、いつもより少しだけ丁寧にメイクをしたあと、軽い朝食を済ませて家を出る。駅へ向かう道すがら、ちらりと空を見上げると、雲ひとつない青空が広がっていた。かなり冷え込む一日になりそうだが、澄んだ空気のおかげでどこか気が引き締まる。――昨日より一歩踏み出せるといい、そんな淡い期待を抱きつつ、沙都子は電車へと乗り込んでいった。

会社に着くと、オフィスは通常運転の忙しさを見せながら、少しだけ華やぎを帯びている。受付やフロアの飾りつけにハート型のオブジェが置かれたり、休憩室にも色とりどりのチョコレートがお裾分けとして並んでいたりするからだ。それを見て、お祭りのように喜ぶ若手社員もいれば、ため息まじりに「出費がかさむから辛い」と言う人もいる。

沙都子はデスクに荷物を置くと、席に着きながらざっとスケジュールを確認した。すると、すぐに内線を経由したメールが届く。差出人は松下だった。

「今日の昼休み、少しだけ時間をもらえないかな? 会議室を押さえてくれると助かる」

それだけの短い文章に、どこか胸が弾むのを感じてしまう自分がいる。さっそく空き状況を検索して見ると、12時半~13時までなら会議室の一つが空いているようだった。すぐに返信を打ち終え、心の内で「あと数時間か…」と静かに気合いを入れる。昨日、はっきり渡そうとしていたものが一体何なのかを確かめたい。

ところが、さらに落ち着かない出来事がやってきたのは、昼休みを迎える前のことだった。デスクに向かい業務を進めていると、総務部経由で郵便物が回ってきた。その中に、見慣れたピンク色の封筒がまた紛れ込んでいる。宛名は「三沢沙都子様」。差出人の名前はやはり書かれていない。嫌な予感と期待が綯い交ぜになりながら封を切ると、そこには小さな白いカードと、小箱がひとつ入っていた。

小箱を開けると、ほのかに香りのある上質そうなチョコレートが数粒並んでいる。なめらかな光沢に包まれたチョコは、良質なカカオの風味を漂わせ、見るからに高級感を漂わせていた。ページをめくるようにカードを開くと、その中にはこう書かれている。

「明日、必ず渡したいものがある。○○駅前のカフェにて、18時に待っています」

“このチョコは、その予告の一端?”――頭が混乱する。松下も何かを渡そうとしている。けれど、いま手元にある小箱は、明らかに未知の差出人からのものだ。相手の名前もわからないまま、なんとなく上品で丁寧な気遣いを感じる。

しかも文面をよく見ると、明日に「渡したいものがある」と断言しているのだ。向こうは場所と時間まで指定してきているが、もし足を運んだとして、それが誰なのかもわからずに行っていいのだろうか。普通なら不審に思うところだが、何か妙に思わせぶりな研ぎ澄まされた雰囲気を持つカードに、安易に「いたずらでは」と片付けられない気持ちがある。

社内を一瞥すると、一部の社員たちは机の上に並ぶ菓子やチョコのやりとりで盛り上がっている。そんな光景を横目に、沙都子は小箱をデスクの引き出しにしまい込み、カードをそっとバッグの内ポケットへ忍ばせる。実際、女性社員にとってバレンタイン直前のこんなやりとりは日常茶飯事に見えなくもないのだが、内容を考えれば軽視できない。“差出人不明”というだけでなく、「明日」という具体的な呼びかけがあるからだ。

「沙都子さん、どうしたんですか? ちょっと顔色が優れない気がしますけど…」隣の席の後輩が心配そうに声をかけてくる。沙都子は思わず「あ、ちょっと考えごとしてて」と慌てて取り繕った。こんなプライベートな相談を社内で大声で話すわけにもいかないし、ましてや松下のこととも関わるかもしれない疑惑がある。昼休み前の慌ただしい時間、頭の中はぐるぐる回転を続けた。

そして正午過ぎ、松下との約束した会議室へ入る。彼は既に先に座って待っていた。ちらりと目が合った瞬間、その柔らかい笑顔に安堵を覚える。そして同時に「やはり、この人は自分にこんな上質なチョコを匿名で送るタイプじゃない」と確信めいたものを感じさせる。

「お疲れ様。呼び出して悪かったね」

松下が低いトーンで言葉をかける。沙都子は気にしないで、と返しながら、さっそく話の続きを促した。

「あの…昨日言っていた渡したいものがあるって?」

すると彼は、ビジネス鞄の横ポケットから小さな包みを取り出した。落ち着いた赤いリボンが巻かれた包みを見て、一瞬“チョコか?”と頭をよぎる。しかし、松下は少し照れくさそうに言葉を続ける。

「これ、中身は君が昔好きだって言ってたブランドのチョコなんだ。覚えてるかな? あのとき、君が“ここのチョコは香りと食感が最高”って熱弁しててね。俺は正直、甘いものに詳しくなかったから印象に残ってたんだ」

リボンの包みを受け取りながら、沙都子は思わず笑みを漏らす。ブランド名を口にすると「ああ、たしかに好きだったかも」と記憶が一気に蘇る。でも、まさか松下がいまだに覚えていて、それを持ってきてくれるとは想像していなかった。

「ありがとう。こんなこと、悪いよ。もうあなたは結婚してるんだし、私も…」

言いかけると、彼は軽く首を振った。「いや、厳密には“本命チョコ”ってわけじゃないんだ。単なる感謝の気持ちともいえるし、少し遅れてしまったけど結婚式に招待できなかったお詫びでもある。君との過去を否定するみたいでずっと気がかりだったから、ちゃんと手渡したかったんだよ」

その言葉に、沙都子の胸がじんわりと温かくなる。たしかに昔は一緒に過ごした時間があった。奇妙な形で関係が終わってしまったけれど、それでも大切な思い出だと感じているのは自分だけではなかったのかもしれない。それをこんな形で再び共有できるのは、ほろ苦くもあり、嬉しくもある。

「すごく嬉しい。ありがとう。いっぱい傷ついたり悩んだりもしたけど、ちゃんとこうして話せる日が来るんだね」

小さくうなずく松下は、視線を下に落としながら控えめに微笑む。どこかあの頃より大人びた雰囲気を持ちながらも、温かな目線は何一つ変わっていない。そして突然、かしこまった口調でこう続けた。

「結婚して、いろんな発見があったんだ。もちろん配偶者を大切に思う気持ちはあるけど、ふと『もしあのとき違う道を選んでいたら』って考えることもある。君と仕事とプライベートをどうにか両立していたら、いまどうなっていたのかな、とか。…でも、後悔ってわけでもないんだ。不思議だよね」

沙都子にも思い当たる節はある。離婚の痛手を負ったときも、「もしかしたら松下と付き合い続けていたら違った未来もあったかもしれない」と、逃げるように想像したことがあった。それは単なる夢想にすぎなかったとしても、どこかで自分を救ってくれたのかもしれない。

「私もいろいろあったけど、今日まで歩いてこれたのはあの頃があったからかもね。そう思えるのは、あなたが優しい記憶として残してくれたから…かな」

さりげなく紡いだ言葉を聞き、松下は微笑を浮かべて深くうなずいた。それでいて、「そう思ってくれてるならよかった」と返す彼の声に、どこか安堵の響きが伺える。――またしても閉じかけていた自分の心が、少しだけ開かれていく感覚。ここに恋愛感情というよりは、“過去を分かち合う戦友”のような絆を感じる。彼も既に自分の人生を進み、沙都子もまた別の道を歩んでいる。だからこそ、互いに素直に想いを言葉にできるのだろう。

「ありがとう、大切に受け取るね。…でも、実は私も今ちょっと落ち着かなくて。謎のカードやメールが届いててね。変な言い方だけど、バレンタインに胸を踊らされてるんだ」

思いきって笑いながら明かすと、松下は「へえ?」と軽く驚いた様子を見せる。彼の視線が「自分が? 本当に?」というように見えるのがおかしくて、沙都子は思わず吹き出しそうになった。

「結婚した今の俺から見れば、恋愛でドキドキするなんて素敵なことじゃないか。いいと思うよ」

「うん、ありがとう。でも恋愛かどうかも怪しいの。相手が誰かわからないし…。まあ、明日になればわかるかもしれないから、それまでは楽しもうかな」

そう言いながらも、少しだけ時間を気にする。昼休みが終わりかけているので、そろそろ退室しなければならない。チョコの包みをそっと鞄にしまおうとすると、松下がもう一つ、フォルダの奥から書類を取り出した。

「そうだ。これが今日の本題。仕事のことで少し相談したくて」

あくまで仕事がメインだと強調する彼に、沙都子は「はいはい、わかりました」と肩をすくめて笑う。そんな何気ないやり取りも懐かしいが、もう昔のように深く入り込むことはないだろう。松下の姿を見つめながら、沙都子の心には穏やかな充足感が広がっていた。

仕事の話が終わり、松下とは別れたが退勤前、松下からメールが届いた。「明日、バレンタイン当日の昼休みに少し時間をもらえないか」という短い文面だ。今日渡されたチョコの“本当の気持ち”や過去の話を、改めて落ち着いて話したいのだろうか。はっきりとは書いていないが、社内で公にはしづらいこともあるにちがいない。

結婚した身の松下とバレンタインに個人的に会うのは、沙都子としてやや胸の奥がざわめくが、むしろ彼のほうも気を遣いつつ声をかけてきたのかもしれない。決して浮ついた気持ちばかりではなく、過去に整理されたはずの課題がまだわずかに残っているのだろう。沙都子は軽くうなずいて「わかった、また昼休みに会議室を予約しておくね」と返信を打った。

こうして、バレンタイン当日には“差出人不明”からの呼びかけ以外にも、松下との慎ましい再会が用意されることになる。そして、その両方が、思わぬ方向へと沙都子の運命を動かしていくのだ。

そして、その日の帰り道。夜風の冷たさに身を震わせながら自宅のポストを覗くと、またしても白い封筒が一通入っていた。うんざりというよりも、今度は「いよいよだ」という覚悟にも似たような緊張が走る。家に上がり、コートを脱ぎ捨てて封筒を開けると、そこには封緘された白いカードと、小箱がひとつ。

昼間に受け取ったチョコレートと同じブランドのようにも見えるが、箱のデザインはまた微妙に違う。開けてみると、これも選び抜かれた上質な粒チョコが非常に美しい包装で並んでいた。手紙のほうを確認すると、今度は時刻と場所がはっきりと記されている。

「明日、必ず話したいことがある。○○駅前のカフェにて18時。待っています」

カードの書体は、先日届いた「会いたい」という一言のカードと同じ繊細なタッチで書かれている。ここまで何度も繰り返し呼びかけられれば、もう無視するわけにもいかない。もし相手が不審な人物だったとしても、自分は慎重に行動するしかないだろう。ただ、どこか熟練の筆跡からは、悪戯や犯罪的な意図は感じにくい。もちろん油断は禁物だが、沙都子の胸は高鳴りを隠せないまま。

「なんだろう、これは…。私に何か伝えたいっていうことなのかな」

途方に暮れながらも、沙都子ははっきりと意志を固めていた。明日は間違いなく、その“差出人不明”の相手に会いに行く。結果がどうであれ、行かなければ気が済まない。それに、松下から改めて手渡されたチョコレートを受け取ったことで、心の一部が少しだけ軽くなった感覚がある。過去の恋愛をまとっていた灰色のベールが晴れ、もう一歩踏み出す準備ができたようにも思えるのだ。

翌日は、いよいよバレンタイン当日。松下との昼の約束と、謎の差出人との夕方の待ち合わせ――沙都子にとって、まさか両方が同時に刹那的なときめきを呼び起こすとは想像もしていなかった。けれども、心のなかで「どちらも大切にしたい」と自然に思える。それが単なる好奇心にせよ、直感にせよ、彼女の人生を少しずつ変えていく鍵になる気がするから。

玄関に荷物を落ち着かせ、チョコレートの箱をそっと開いて匂いをかいでみると、甘さとカカオの深みが鼻先をくすぐった。星がまたたく夜空の下、窓の外を見つめながら、沙都子はひとりそっと微笑む。過去と未来、そして目の前にあるこの「チョコレート」は、もしかすると自分に向けられたささやかな合図なのかもしれない。

「どうなるんだろう、明日…」

答えの見えない問いが浮かぶたびに、心に熱が灯る。ちょうどいいタイミングで訪れたこのバレンタインが、人生の転機となるのかはわからない。けれども、二つのチョコがもたらした小さなトキメキは、確実に沙都子を前へと押し出している。そう感じずにはいられなかった。

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