第一章:不意の呼びかけ
「もうすぐバレンタインですね。今年はどうしようか、今から悩んでますよ」
オフィスの休憩スペースで後輩の橋本が笑いながら話しかけてきた。彼は若手ながらも社内でのコミュニケーション能力が高く、先輩にも気軽に声をかけてくれるタイプだ。沙都子はコーヒーを飲みながら「悩むというより、楽しみにしてるんじゃないの?」と軽口を叩く。
「いやいや、僕はこう見えてモテないんですよ~」と照れ笑いする橋本。それを見て、沙都子は思わずくすりと笑った。こんなふうに、バレンタインの話題を同僚たちと冗談めかしているうちは、まだ気楽なものだ。実際には、義理チョコを準備しなきゃいけないとか、同僚同士でのチョコ交換が恒例行事だとか、いろいろ雑務的なこともあるのだが、それもまた行事としては悪くない。
一方で、オフィスには「今年は本命チョコをあの人に渡してみせる!」と意気込む若手女性社員たちもいた。彼女たちは昼休みになるたびに、デパートのチョコ売り場がどうなっているかの最新情報を共有しあい、試食レビューまでして盛り上がっている。そんな姿はまばゆいようで、沙都子は「若いっていいなあ」と温かい目で見守りつつ、自分の心の中で微かな嫉妬めいた感情が生まれることを否定できない。若い彼女たちだけでなく、自分にだってかつてはこうした時期があったからこそ、そう思うのだ。
「そんなに特別な日かなあ」
心の声が漏れそうになったそのとき、休憩スペースにトントンと誰かが入ってきた。人事部の女性が、社内便を机に置いて「神崎部長あての書類と、あとは…あれ、沙都子さん宛ての手紙が紛れ込んでましたよ」と言う。彼女は特に気に留める様子もなく、ほかの郵便物とまとめて沙都子に手渡した。
「私宛て? なんだろう…請求書とか?」
首をかしげながら封筒を手にとると、それは淡いピンク色の便箋が内側から透ける、見慣れない差出人名のない封筒だった。宛名には「三沢沙都子様」と丁寧な文字が並んでいるが、差出人の名前が書かれていない。まさかDMや勧誘でもあるまいし、社内便で送られてくるというのが不可解だった。
気にはなったが、いまは時間がない。とりあえず自席に戻ってデスクの端に封筒を置き、午後の業務をこなすことにした。が、頭のどこかでほんの少しだけ落ち着かない。自分宛ての手紙など、最近ほとんど受け取った記憶がないからだ。それがバレンタイン間近に届くのだという偶然に、沙都子は心がふっとざわめくのを感じた。
結局、その日の業務が落ち着いたのは定時を過ぎてからだった。コピー機の前でぐったりとしながら、一日の終わりにようやく手紙のことを思い出す。デスクの隅に置いた封筒を取り上げ、さっそく中身を確認してみた。そこには小さなカードが一枚入っている。優美な曲線を描いた筆記体――まるで手書きを特殊な機械で印刷したかのような、美しい文字が並んでいた。しかし、そのカードにはわずか二文字だけ。
「会いたい」
まさかの一言に、沙都子の脳裏はあっという間に真っ白になる。まるで恋愛小説の冒頭のような、あるいは映画のワンシーンのようなシンプルな響きに戸惑いを隠せない。宛名が自分宛てなのは間違いない。ただし差出人はわからない。ほかに説明もなし。
「…誰?」
ひとりごとのように呟いてみても、答えが返ってくるわけではない。また、名前すら書いていないので、いったいどうやって連絡を取るつもりなのかも見当がつかない。悪戯かもしれない、と頭では思いながらも、その手紙を見つめる沙都子の胸の奥には妙な高揚感が生まれ始めていた。
実際、翌日もその翌日も、叶わぬ推理をめぐらせながら日々が過ぎた。同僚にちらりと「今日、変わったことなかった?」と探りを入れてみても、「バレンタインの準備でバタバタしてて何も気づかなかったなあ」などと軽く流される。また、後輩たちは「あれ、沙都子さん、なんだかいつもより気になる人がいるみたいですよ?」などと冗談めかして聞いてくるものの、まさか匿名のカードが届いたとは言いづらかった。
だが、カードの一言は驚くほど強い余韻を残していた。「会いたい」という言葉には、あまりにも多くの感情が含まれている。恋人、旧友、それとも誰かに依頼したいことがあるのか。そもそも本当に自分のことなのか…考えるほどに疑問は膨らみ、回答は浮かんでこない。それでもどこか胸が騒ぐのは、バレンタインという時期に差し迫ったからだろうか。
「今年もやり過ごすだけ」と思っていた沙都子の心は、まるで誰かに琴線をかき鳴らされたかのように微かに震えていた。小さな違和感が、じわじわと彼女の中に染み込んでいく。
そんなある日、昼休みに同僚数名がまるで噂話をするように集まり、「ねえねえ、聞いた? 今年はなんだか社内で面白いことが起こりそうなんだって」と話しているのが耳に入った。「何それ? 具体的にどんな感じ?」 「あたしも詳しくはわからないんだけど、なんか“サプライズバレンタイン企画”みたいなのがあるとかないとか…」
沙都子が興味を示すと、彼女たちは「まあ、本当に噂だから、ただの冗談かもしれないね」と笑って立ち去っていく。ベテラン社員の沙都子としては、それほど気にかける必要もないと思いつつ、やはり心の隅でつながってしまう。自分の元に届いた不思議なカードと、この浮ついた噂話は関係があるのだろうか…。
いずれにせよ、証拠があるわけではない。自分に関係のない騒ぎなら、また自然に沈静化するだろう。そう思いながらも、沙都子はどこか期待するような気持ちを否定しきれなかった。
その日の帰り道、地下鉄の改札を通り抜けようとしたとき、小さく誰かに呼び止められたような気がした。しかし振り返ってみても、そこには慌ただしく行き交う人の流れしかない。
「気のせいかな」
そう呟いて再び歩みを進めるも、先日のカードの影響か、余計な警戒心が頭をもたげる。あのカードを書いたのは誰で、こんなふうに背後から呼び止めようとする意味でもあるのか。いや、考えすぎかもしれない。自分自身を落ち着かせるかのように、バッグの中からスマホを取り出してメールを確認してみても、何も届いていない。
「なんだか気味が悪いわね…」と、思いながら階段を下っていく。だがそれと同時に、自分の中に隠しきれないわくわくがわき起こっているのを感じる。「あの人」は結局誰なのだろうか。いたずらならそれはそれで終わりかもしれないが、もし本気で自分を呼び出したいのだとしたら――。
改札を抜けた先のホームで、一瞬だけ立ち止まった沙都子は、小さく頭を振って雑念を振り払う。これまで乾いた日常を当たり前に受け入れてきたが、“期待”というエネルギーがここまで心を踊らせるのかと改めて実感する。40代だからといって、もう恋愛もときめきも終わりではないはずだ。バレンタインが特別な日だと思ったことは久しくなかったが、わずかでもときめきが蘇るなら、それを自分に許してもいいんじゃないか。
そう思った瞬間、電車の到着を知らせるアナウンスが響いた。日常の喧噪に紛れるように、沙都子は小走りになって車両に乗り込む。まだ続くかもしれないこの奇妙な出来事に、少しだけ胸を弾ませながら。