第二章「柘榴の木のある家」
鹿児島空港から借りた軽自動車で山道を走ること一時間。カーナビの画面が目的地の接近を告げる。
雲見市は、鹿児島県北部に位置する人口約8万人の市。山々に囲まれ、古くからの伝統と新しい街並みが混在する場所だった。
「ここが、私の新しい家」
細い路地を曲がると、古びた木造平屋が姿を現れた。不動産の写真で見た以上に年季が入っているように見える。
玄関前で車を停め、美桜は深いため息をついた。東京での生活を全て投げ出して、見も知らぬ土地に来てしまった。今更ながらの後悔が胸をよぎる。
「いらっしゃい」
背後から声が聞こえ、美桜は思わず振り返った。そこには、近所らしい老婆が立っていた。
「私は隣に住んでる川上です。新しく来る人がいるって聞いてたもんで」
笑顔で差し出された手には、タッパーに入った漬物があった。
「あ、ありがとうございます。伏見と申します」
思いがけない歓迎に、緊張が少し解けた。
家の中に入ると、古い畳の香りが鼻をつく。壁には細かいヒビが入り、天井の一部には雨漏りの跡らしきシミがあった。
「大丈夫。ちゃんと住めます」
また、あの声。今度は自分の後ろ姿が廊下の突き当たりで笑っているような気がした。目を閉じて開くと、何もない。
縁側に腰掛けると、庭全体が見渡せた。雑草が生い茂り、柘榴の木が何本も不規則に植えられている。実はまだ青く、秋まで待たなければ熟さないだろう。
「この家には、昔から柘榴の木があったんですよ」
川上老婆が縁側に座り、懐かしそうに庭を眺めた。
「でも、あまりいい話は聞きませんがねぇ」
「どういう意味でしょうか?」
「あら、不動産屋さんから聞いてないの?この家に住んでた家族が、突然いなくなったって話」
美桜の背筋が凍る。
「十五年くらい前かしら。ある朝、家族全員がいなくなってね。引っ越しの準備もなにもなく。まるで蒸発したみたいに」
老婆の表情が曇る。
「警察も捜したけど、手がかりは何もなかったそうよ。それ以来、この家には誰も長く住まなかった」
夕暮れが近づき、庭の影が長く伸びていく。柘榴の木々が風に揺れ、不気味な影を作る。
「でも、気にすることはないさ。昔の話よ」
老婆は立ち上がり、「何かあったら声をかけてね」と言い残して帰っていった。
一人になった美桜は、荷物の整理を始めた。東京から送った段ボールは明日届く予定だ。今夜は最小限の必需品だけで過ごすことになる。
夜、布団に入ると、家全体が軋むような音を立てた。古い家特有の音なのだろうが、どこか人の呻き声のようにも聞こえる。
「ようこそ」
枕元で誰かが囁いた気がした。振り向く勇気はなかった。
スマートフォンの画面を開くと、東京の友人たちからLINEが届いていた。 「田舎暮らし、大丈夫?」 「寂しくなったら帰っておいで」
返信をしながら、美桜は考えた。本当に、これで良かったのだろうか。
窓の外では、月明かりに照らされた柘榴の木が影を揺らしていた。まるで、誰かが枝の向こうで踊っているかのように。