第七章「最後の選択」
稲妻が光るたび、"もう一人の自分"の姿がはっきりと見えた。 長い黒髪が風に舞い、着物の裾が濡れた庭に引きずられている。
「この土地には、もう十分な犠牲が払われた」 「あなたはここに留まる資格がない」
雨は激しさを増し、庭は泥流と化していた。 倒れた柘榴の木の周りには、熟れた実が血のように散らばっている。
「私は...」
答えようとした時、携帯電話が鳴った。 東京の元上司からだ。
「伏見さん、台風が酷いみたいだけど大丈夫か?」 「明日の朝一番の飛行機のチケットを押さえてある。東京に戻ってこないか」
その言葉に、美桜の心が揺れた。
突然、庭の奥から人影が現れた。 黒いドレスの少女、その後ろには中年の夫婦、そして小さな男の子。 15年前に失踪した家族だった。
彼らは口々に語りかけてきた。
「私たちは願いを叶えようとした」 「でも、代償は重すぎた」 「ここから逃げて」
その声は風に消され、幻影は雨の中に溶けていった。
「決断するのね」
"もう一人の自分"が近づいてきた。 その手には、完熟した柘榴が握られている。
「これを受け取れば、あなたの願いは叶う」 「でも、大切なものを失う」 「それが、この土地のルール」
美桜は、ようやく理解した。 自分がこの地に引き寄せられた理由を。 東京で抱えていた空虚感、満たされない思い。 それは、"本当の自分"を見失っていたからだ。
「私は...」
美桜は柘榴を受け取ろうとする手を止めた。
「もう、逃げない」 「でも、ここに留まることもしない」 「私の居場所は、自分で見つけるわ」
その瞬間、風が止んだ。 空が僅かに明るくなり、東の空からか細い光が差し込んでくる。
"もう一人の自分"は、静かに微笑んだ。
「正しい選択ね」
その姿は、朝日の中に溶けていった。
数日後、美桜は雲見を去った。 しかし、それは敗走ではなかった。
東京に戻り、新しいプロジェクトに携わりながら、彼女は時々思い出す。 柘榴の木々が立ち並ぶあの庭を。 そして、自分の中にある闇と向き合うことを教えてくれた、あの場所を。
古い家は、市の管理となった。 柘榴の木々は伐採され、新しい住宅が建つという話を聞いた。
でも、美桜は知っている。 あの土地の物語は、まだ終わっていないことを。 そして、いつか自分が再びあの場所を訪れる日が来ることを。
今でも夜になると、柘榴の実のような深い赤色の夢を見る。 それは、もはや悪夢ではない。 自分の中に在る、消せない記憶の色なのだ。