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第一章「東京の終わり」
六月の雨が窓を叩く音が、伏見美桜の耳には砲撃のように聞こえた。
「伏見さん、この企画案では通りませんね」
会議室の空気が一瞬で凍り付く。プロジェクターの光が、美桜の額に浮かんだ冷や汗を照らし出していた。
「申し訳ありません。もう一度検討し直させていただきます」
声が震える。いつもの自分らしくない。営業成績優秀者として知られる伏見美桜が、こんな初歩的なミスを犯すなんて。
会議室を出た途端、廊下の壁に寄りかかった。スマートフォンの画面に映る自分の顔が、まるで他人のように見える。
「大丈夫?」
振り返ると、そこには誰もいなかった。しかし、確かに誰かの声が聞こえた。それは自分の声に似ていて、でも少し違う。
その日から、美桜の世界は少しずつ歪み始めた。
深夜まで続く仕事、朝まで終わらない資料作り。かつては当たり前のようにこなしていた日々が、急に重荷に感じられるようになった。
「もう限界かもしれない」
マンションのベッドに横たわりながら、天井を見つめる。都心の喧騒が、二十階の高さまで届いている。
そして、それは突然やってきた。
鏡に映った自分が、こちらを見て笑った。
美桜は思わず目を閉じた。再び開けると、鏡には疲れ切った自分の姿しか映っていない。だが、確かに見た。あの不気味な笑みを。
それから数日後、会社を辞める決意をした。上司は驚いた様子で、「考え直す時間が必要なのでは」と提案してきたが、美桜の決意は固かった。
インターネットで物件を探していると、ある一軒家の写真に目が止まった。鹿児島県と宮崎県の間に位置するの山間部に位置する雲見市。広い庭には柘榴の木が植えられているという。
「なぜだろう」
理由は分からない。ただ、その写真を見た瞬間、強い引力のようなものを感じた。
「ここしかない」
契約はあっという間に済んだ。不動産屋は驚くほど安い家賃で、即入居可能だと言う。
「ご存じの通り、最近は地方の空き家が増えておりまして」
説明を受けながら、美桜は不思議な高揚感を覚えていた。
荷物をまとめ、会社の後処理を済ませ、友人たちに別れを告げる。全てが夢の中のように進んでいく。
そして出発の朝。
鏡を見ると、また"あの笑顔"が見えた気がした。今度は一瞬だけ。だが確実に、そこにいた。
「私を置いていくの?」
声が聞こえた気がした。振り返ると、誰もいない。
タクシーに乗り込む直前、美桜は東京の高層ビル群を見上げた。十年間、必死に這い上がってきた場所。でも今は、ただ逃げ出したかった。
羽田空港行きのタクシーの中で、美桜は携帯電話の画面に映る自分の顔をじっと見つめた。
「さようなら」
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。