PART8
スマホを掴む。だが、掲示板に書き込んだところで誰も信じてくれはしないだろう。すでにあざ笑われ、荒らしレスがつくばかりだ。それでも、ここで黙り込むわけにはいかないという気持ちが、胸の奥から湧き上がる。もしかしたら、かつてレスバに燃えていた自分と同じように、馬鹿にしながらでも興味を持ってくれる誰かに真実を伝えることができるかもしれない――。
震える手で画面の鍵を解除すると、投稿したスレッドにはさらに攻撃的なコメントが増えていた。だが一切構わず、震える指で再度文章を書き込む。「もし、夜中にカラスが集まるのを見かけたら、近づかないでほしい。行方不明者があの中にいる可能性がある。あなたが彼らに呼ばれてしまったら、もう……」――そう書き連ねている最中にも、外からさざめくような羽ばたき音が聞こえてくる。
投稿ボタンを押した瞬間、大きな羽がふわりと視界の端を横切った。咄嗟に目をやると、窓の手すりに一羽のカラスが静かに降り立ち、じっと修平を見つめている。黒い瞳が、優しくも悲しげにも見えるのは気のせいだろうか。失踪者の痕跡を呼び覚ましているのかもしれない。
「なあ……お前は……」
修平は声をひそめて話しかける。返事などあるはずもない。けれど、そのカラスは小さな鳴き声を漏らし、ひと呼吸してからゆっくりと飛び立っていった。そして夜空の彼方で、仲間と合流するように見えなくなる。一瞬だけ、坂本の笑顔がそこに重なって見えた気がして、修平の瞼から熱いものがこぼれ落ちた。
部屋には、まだ別のカラスたちの鳴き声がこだましている。喉の奥から込み上げる恐怖と絶望。そして表しようのない切なさ。自分もいつか、あの群れに引き込まれるのだろうか。今のところはまだ“人間”としての姿を保っているけれど、いつ何がきっかけで境界を踏み越えるのか、もうまったくわからない。掲示板のスレッドを覗けば、案の定ふざけた煽り文句が溢れ、その中にごくわずかだが「興味深い」「確かに最近カラス多いかも」といった意見が埋もれている。だが、この事態を止める方法を見つけられる人間がいるとは到底思えない。
ふと、窓の外でまた羽音がする。今度は何羽かが手すりに止まり、少しずつ距離を詰めるように近づいていた。数多の瞳が、修平を“仲間”として懐柔しようとしているか、あるいはその身を蝕もうとしているか、どちらにしてもろくな結末は思いつかない。それでも、ここで怯えているだけでは何も変わらない。なのに、脚がすくんだまま、身体が動かない。熱を失った指先が震えるのを感じながら、修平はただ息をするだけだった。
やがて、大きな太鼓のようになっていた心臓の鼓動も落ち着きを見せる。外の世界が重苦しい闇に沈むなか、カラスたちが再び低い声を揃えて鳴き交わすなかで、修平はかすかな決意を抱いた。もう後戻りはできない。ありのままの現実を見てしまった以上、どこへ逃げてもカラスの影がつきまとうのだろう。ならば、いっそ――。
椅子から立ち上がり、窓のほうへゆっくり近づく。引き込まれる場所があるとすれば、それは夜の闇に揺れ動くカラスたちの“輪”なのかもしれない。坂本という仲間、そして名前も知らない多くの失踪者。自分がかつてレスバで傷つけたかもしれない誰かの声が、そのカラスの群れの奥深くで苦しんでいるのかもしれない。いや、もはやそんな論理すら判断がつかない。遠くで一斉に鳴いたカラスの合唱が、胸の奥をざわりと震わせた。
――自分の意志でここに留まるのか、それとも“あちら側”に行くのか。気づけば、窓の外へ手を伸ばそうとする自分がいる。まだ人間としての理性が、小さく警鐘を鳴らしているが、その音はカラスの合唱にかき消されかけていた。
そう、すべてが手遅れになる寸前まで、修平は己の震える手を見つめていた。夜空へと伸ばされた指先。どこか懐かしいような、奇妙な安堵のような感情が入り混じり、浅い呼吸が胸を突く。外では何羽ものカラスが修平を待ちわびるように羽ばたいている。それはまるで、彼らの仲間として迎え入れるための儀式か――あるいは、単なる獲物を仕留めるための誘いか。
そのまま、修平は深く息を吸った。そして静かに唇を引き結ぶ。アイコンのように光り続けるスマホの画面が、部屋を淡く照らしていた。そこには彼の書き込みを嘲笑するコメントの数々が流れ続けている。けれど、その先には「外で不気味なカラス見た」「はいはい、妄想乙」とあしらう声もあれば、ほんの小さく「自分も似たもの見たかも」と呟く声もあった。わずかな共感の粒が、暗い闇のなかで微かに光る星のように浮かんでいる。
――この世界には信じてもらえない“真実”が混ざり合っている。行方不明者の増加や、街を覆うカラスたちの正体。その謎はまだ解き明かされないままだ。けれど、少なくとも修平がそれを目撃し、ここで書き残した事実は消えない。嘲笑しようが、否定しようが、どこかにほんの一握りの人間がそれを受け止めるかもしれない。だからこそ、修平は“最後の書き込み”を画面に残すことを選んだのだ。
あとは、夜の闇に深く潜む選択が待ち受ける。カラスの鳴き声は、ますます激しさを増してビル群に反響し、金曜日の闇を昏く震わせる。まるで誰かを探し、何かを訴えているように――。その群れがひときわ強く羽音を轟かせた瞬間、修平の視界はかすかに揺らいだ。自分の身体を含め、あらゆる境界があいまいになり、彼らの声が血の流れと同化していく感覚に包まれる。
「坂本……」
思わず名前を呼ぶと、一斉にカラスたちが潜めていた声を高め、「カァ――ッ」という咆哮を闇夜に響かせた。もはや修平の耳には、悲しみとも懇願ともつかない人間の叫び声にしか聞こえない。やがてその渦の中心へと、修平はゆっくりと腕を伸ばす。理性が崩れていく瞬間、どうしようもない孤独と共鳴するように廻る黒い世界が、彼の意識を飲み込もうとしていた。
――そして、窓の外のカラスたちは決して鳴き止むことはなかった。
いまも、この街のどこかでカラスは増えている。行方不明の報道は途切れない。その背後で、誰かがこの真実に気づいているかもしれない。あるいは気づきながらも、嘲笑や疑念の渦に埋もれて見過ごしているのかもしれない。冷えた夜風に黒い羽ばたきの音がこだまするたびに、新たな人の気配が闇に溶けていく。金曜日の夜、カラスたちは泣き始める。それは、彼ら自身の慟哭であり、同時にこの世界への合図でもある。
窓の外に押し寄せる黒い波。嘲笑されても記録された“警鐘”とも呼べる一文。まして、その続きを語る声はない。けれど、もし今夜あなたの窓辺にもカラスが集まりはじめたなら、その鳴き声の奥に閉じ込められた人間の声を、どうかひとときでも想像してみてほしい。そうして注意深く周囲を見回せば、あなたの足もとや物陰に散らばる、誰かの生きた証が見つかるかもしれない。
猫背の男がソファに寝そべってひたすらレスバトルを続けていた、あの平凡な生活が、ある夜を境に失われてしまったように――いつ、どこで、自分が“向こう側”へ招かれるかは、誰にもわからないのだから。