サスペンス ホラー ミステリー 中編小説

【後編】金曜日の夜、カラスたちは泣き始める

スマホを手放し、どうにか呼吸を整えると、修平は窓に背を向けた。黒い影がガラスをひっかく音の合間に、何か訴えかけるような鳴き声が混じっている。まるで言葉にならない声援なのか、嘆きなのか、はたまた懇願なのか。それが坂本をはじめとした、行方不明者たちの声だという妄想が膨らんでは、理性がそれを必死に否定する。その繰り返しに息が詰まりそうになる。

結局、その夜は一睡もできなかった。カラスの騒ぎは夜明け近くになってようやくおさまったようだが、明るくなっても部屋の外にはまだ数羽が残っているらしく、断続的な鳴き声を上げている。修平はカーテンを閉めきったまま、ただ静かに布団にうずくまっていた。とても外に出られる精神状態ではない。どうすればいいのかわからないまま、思考はぐるぐると空回りする。

翌日以降も、彼は会社に行くことができなかった。上司からスマホに着信が入るが、何度かスルーするとやがてかかってこなくなる。自分自身が行方不明になってしまう前兆なのでは――そんな陰鬱な予感すらよぎってしまう。実際、今の修平はまるで抜け殻のように、部屋に閉じこもり続けていた。

外では相変わらずカラスの噂が絶えないようだ。SNSでは「カラスの声が夜通し響いて寝られない」「行方不明者が最近また増えたらしい」などの書き込みが続いている。けれど、それを取り締まるどころか、誰も本気で危機感を抱いていない。ビルに巣を作るカラスなど以前から都市問題としてあったし、行方不明事件もどこか他人事として処理されやすい――結局、多くの人が「変だなぁ」と言いつつも深く考えずに流してしまうのだ。だが修平には、真実を見てしまった者の苦しみがある。

夜になると、また点在するカラスが修平の部屋の周囲に集まりだし、せわしなく鳴き交わす。最初は弱弱しい声のようでいて、次第に数を増していき、やがて震えるほど大きな合唱へと変わっていく。修平の精神は、もはや限界に近づいていた。

「助けて……」

誰に言うでもなく、小さく嗄れた声が口を突いて出る。ただ、ネット掲示板で叫んだところで笑われるだけ。警察に通報したとしても具体的な証拠がなく、相手にされるとは思えない。そもそもカラスが大群でいるくらいでは逮捕もできないはずだ――と、あれこれ絶望的な思考が脳内を駆け巡る。

そして眠ることもできないまままた夜が深まり、金曜日がやってくる。その頃には、修平はすっかり消耗していた。疲労と不安でまぶたは下がり、頬はこけ、何も食べる気力が湧かない。引きこもり続けた部屋は散らかり、カーテン越しの外には変わらず黒い影がうごめいている。さらに遠くからも連鎖するような鳴き声が伝わり、まるで街中にカラスの輪が広がっていく印象さえあった。

深夜、とうとう修平は窓辺のカーテンを少し開けて、夜空を見上げる。気味が悪いほど低い雲の切れ間に、月がにじんだ光を投げかけている。何羽ものカラスがシルエットを描き、客観的に見れば幻想的とも言える景色だが、今の彼には恐怖しか感じられない。それでも、どこか諦めにも似た静かな感覚が胸の下に芽生えていた。

「このまま、ずっとおびえていても仕方がない」

一瞬だけ、そう思う自分がいる。もし、あの不気味な光景のなかに飛び込んでしまえば、すべての不安や孤独から解放されるのかもしれない、と。苦しげな鳴き声の合間に、そんな甘い誘惑を感じてしまう。そして気づく――いつのまにかカラスの声が人間の声のように聞こえはじめていることに。錯覚か、疲弊した身体が作り出した幻聴か。それとも、やはりそこにはかつての坂本や、失踪した人々の魂が宿っているのか。いまの修平には真相を断ずる余裕がない。

ぐらりと身体が傾く。恐怖が消えないまま、不思議な高揚感が胸の中に広がり出す。窓を開け放ちたい衝動に駆られ、手をかけかけて、なんとか我に返った。だがそのとき、またしてもガラスを叩く力が増し、カラスたちは一斉に大きく鳴き声を上げる。ついに限界なのかもしれない。修平は座りこんで目を瞑り、自分の中から最後の力が抜けていくのを感じた。

脳裏に浮かぶのは、蒸発するように消えた同僚たちの面影、そして掲示板でのくだらないレスバに明け暮れていた日々。もしかしたら、自分もそうやって“別のもの”へと変わってしまうのだろうか……。何度も首を振って否定しようとするが、かすかな覚悟すら湧いてくる。空を埋め尽くす黒い風景のなかで、もう逃げ切る術はないのかもしれない。

やがてガラス越しの音がピタリと止んだ。静けさが急に訪れる。はっと顔を上げると、外には依然としてカラスたちがいたが、何かの合図に従うように鳴き声を止めている。部屋の中からはそれが得体の知れない儀式の始まりのようにも見えた。

修平はわずかに唾を飲みこむ。「もう……だめかもしれない」そんな言葉が脳裏にこぼれ落ちる。彼はカーテンをゆっくりと開き、窓ガラスを押し開けた。すると通り抜けてきた夜気が、首筋をひんやりと撫でる。視界に広がるのは、静止したように並ぶ数多のカラス。その一羽一羽に、かつての友人や同僚、あるいは街の中で消えていった人々の面影が垣間見えるような錯覚を覚える。誰もその真実を語らないまま、ただ無言のメッセージが押し寄せてくるようだった。

「……っ!」

鳥の瞳が、闇夜の月光を受けて白く尖る。その光景に息を飲む。外へ足を踏み出せば、自分もまた回帰する場所を失って、この群れに取り込まれてしまう。それは、狂っていると言われても仕方のない妄想だろう。だが、本能で感じてしまうのだ。もう、ここに常識で築いた“安全地帯”など存在しないことを。

カラスたちはまた低く「カァ……」と鳴きだした。その声の洪水が静寂を裂く。恐ろしくも魅惑的な夜の呼び声に、修平は意識を手放しそうになる。それでも最後の抵抗が、彼の足をその場に踏みとどまらせた。

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