PART6
そのとき、ふと近くのカラスが不自然な姿勢をとった。首をかしげ、片足を軽く上げるような仕草。まるで人間が「考えている」かのように顎に手を置く恰好をして。どこかで見たことのある光景に重なる――そう、社内で談笑しているときの坂本が、思案顔で下唇をとがらせるあの姿。修平の中で、嫌でもリンクするものがあった。
「坂本……なのか?」
無意識に呟いた瞬間、そのカラスが「カァ」と一声鳴いた。他のカラスたちも、一瞬にして鳴き声をやめる。そしてシンとした暗闇に不気味な気配だけが残る。修平の鼓動はさらに強まって、自分でも耳障りなほど血液が脈打つ音が聞こえそうになった。
馬鹿な、と頭では否定する。鳥と人間は全く別の生き物。そんなの当たり前だ――けれど、世の中には説明のつかない異様な事象もあるように思えてくる。行方不明者たちが、何らかの形でカラスへと“変じている”のではないか。あり得ないと切り捨てられたはずの発想が、まるで現実として今ここに突きつけられているようだ。嫌なほどに肌に伝わる静けさと、カラスたちの鋭い視線が、修平の疑念を確信へ近づけていく。
やがて、道の奥から大きな羽音が聞こえた。まるで合図を受けたように、路地の闇にうごめくカラスが一斉に飛びあがる。バサバサと激しく羽ばたく音が、生々しく耳を打つ。闇夜の空を埋め尽くさんばかりの密集に、修平は見惚れるというより、圧倒され、足がすくむ。街灯の光も届かないほど大量のカラスが宙を舞い、軌道を描くたびに濁流のような黒い塊が渦を巻く。それは“カラスの襲来”とでも呼べる凄絶な光景だった。
しかし、それは単なる攻撃衝動というよりも、悲しみや嘆きの表現にも見えた。まるで「見てくれ、わかってくれ」と言わんばかりの必死さが、乱れ飛ぶ羽や乱雑な鳴き声に滲んでいる。修平は思わず耳をふさぎたくなった。不条理なまでに大きなエネルギーが、目の前の夜空で爆発している。その中心にいる自分こそが、次の“変容”を突きつけられているのではないか――そんな恐怖がいや増す一方だった。
「もう無理だ……」
声にならない悲鳴を内側で吐き出しながら、修平は逃げるように踵を返す。カラスたちを振り払いながら暗闇から這い出し、何とかアパートへと戻る道を駆け抜けた。過呼吸を起こす寸前の胸を押えつつ、玄関をバタンと閉める。夜風を遮断したはずなのに、まだ耳奥でカラスの合唱がこだましているように思えた。
自宅に戻ったあとも、尋常ではない動悸が続いた。まるで心臓が薄い胸板を突き破って飛び出すのではないかというほどだ。喉がカラカラに乾き、ペットボトルの水を飲んでも震えが止まらない。掲示板に誰かが似たような経験を書き込んでいないか――そんな希望的観測から、修平はスマホを握ってスレッドを検索する。けれども見つかるのは“カラス増えたよな”という軽い雑談や、“カラスなんてただの害鳥だろ”といった浅薄な論調ばかり。自分が体験した“真実”を吐き出したスレッドは現れない。例え書き込んだところで、自分の話を真剣に取り合ってくれる人などいるのだろうか。
それでも、いても立ってもいられず、修平は震える指で書き込みを始めた。「路地裏で大量のカラスを見ました。そこには行方不明者の持ち物らしきものが散らばっていて――」と、考えられる限り正直に、そして事実だけを淡々とまとめていく。だが、すぐに返ってきたレスは「頭おかしいのか?」「オカルト板へ行け」「釣り乙」の荒らしコメントばかり。さらに何人かは苦笑や煽りを交えて“レスバ”をしかけてきたが、今の修平にはそれに応じる余裕すらない。あまりに大きな不安と恐怖を吐き出したつもりが、掲示板の住人たちからは否定や面白半分の嘲笑しか返ってこない現実に、かすかな絶望感すら覚えた。
「やっぱり……信じてもらえないのか」
どこかで覚悟していた結末ではある。結局、そこは匿名掲示板。どんな真実も、証拠がなければ戯言として扱われるだけだ。むろん修平自身、本当に“人間がカラスになっている”などいう話が、にわかに信じられるはずもない。だが、いまこの瞬間にも、街のどこかで誰かが姿を消し、代わりにまた新たなカラスが増えているとしたら――。
掲示板の画面を眺めるうち、突如として窓の外から、あの泣き声が再び聞こえはじめた。深夜にもかかわらず、途切れず鳴き響くカラスの声。数が増しているのか、密集度が高まっているのか、ビルの谷間を突き抜けてくる声は段違いに大きい。まるで苦しげな叫び声……いや、どこか執拗にこちらを呼び寄せようとしているようにも聞こえる。
耳を塞ごうと床に座り込んでも、声は壁や窓を振動させて入り込んでくる。恐ろしくなってカーテンの隙間から外を覗くと、手すりや電線、塀の上にびっしりとカラスが並び、こちらを凝視していた。ちょうど路地の街灯の明かりが逆光となり、カラスの目が白く輝いて見える。明らかに普通の鳥の行動ではない。その無言の圧力に、修平は息を止める。
「何か……伝えたいのか……?」
そう思った矢先、カラスの群れが一斉に鳴き声を上げた。ある者は羽を広げ、ある者は低く身構えて、もはや街全体を黒く埋め尽くさんばかりの勢いだ。まるで人間が示し合わせたかのような統制が取れているようにも見える。修平の脳裏に、行方不明者の顔ぶれが走馬灯のように浮かんだ。坂本だけじゃない。昔の同級生や、新聞記事で気になった失踪者たち。もしかしたら皆、そこに混じってこちらを見つめているのではないかと――そんな有り得ない仮説が、彼の理性を侵食していく。
思わず悲鳴にも似た声をあげそうになったとき、スマホがバイブレーションで震えた。何かの通知かもしれない。だが、掲示板に書き込んだ自分の“告発”は、すでにバカにされ、嘲笑され始めているに違いない。少しだけ確認してみようと画面を覗くと、やはり「イカれた妄想」「もっと面白い創作しろ」などと心ない言葉が飛び交っている。レスバを好む修平ですら、この状況では反論する気力がまるでない。徒労感と孤独感だけが胸を満たす。
そのときだ。窓ガラスを激しく叩くような音が響いた。同時にカァッという鋭い鳴き声が耳を刺す。まるで部屋の中に入り込もうとするかのように、窓越しにカラスのシルエットがくっきりと浮かび上がる。仁王立ちしているその姿が、ひどく人間的に思えるから不気味だ。どうかしている。だが、このままでは自分も……。
修平は急に目がくらんで、慌ててテーブルの縁を掴んだ。激しい動悸のせいで視界が霞み、立っていられなくなる。体温が下がっていくような冷や汗が、頬から首筋へつたう。部屋中に充満する恐怖と混乱が、まるで形をもってまとわりついてくるようだ。
「やめてくれ……」
うわごとのように呟きながら膝をつくと、窓で鳴き叫ぶカラスの声がいっそう高まる。部屋の中にじわじわとにじり寄るかのような圧力。今この瞬間にも、カラスになってしまう――そんな錯覚に支配されそうになる。ここまで追い詰められたことは、今までの人生で一度もなかった。