PART4
これほど激しく動揺したのは、いつ以来だろうか。あのプレートが偽物だとしても、これだけの数のカラスが夜に集まり、不気味に人を誘うなんて常識では考えられない。だが、本物だとしたらなおさら恐ろしい。坂本はいったいどこへ消えてしまったのか。
息を整えるためにリビングの椅子に腰掛け、しばらく呼吸を落ち着ける。掲示板の画面を開いてみても、レスバだの煽りだのという言葉が、今はすっかりどうでもいいように思えた。ネットで適当に検索してみても、「人がカラスになってしまう症例」なんて怪談めいた話が散見されるだけで、まともな情報は見つからない。
そうして夜遅くまで調べ物をしていたが、得られたのは曖昧な都市伝説めいたものばかりで、具体的な手がかりはなかった。カラスが行方不明者に関係しているなんて、とても人には言い出せない。そもそも馬鹿げた話だし、頭がおかしくなったと思われるに違いない。それでも、自分の目が見たものだけはきわめて生々しく、否定のしようがなかった。
翌日は金曜日。週末を迎え、仕事終わりの自由な時間が待ち遠しいはずなのに、修平の心は沈んでいた。いつもなら「週末に備えてレスバを楽しもう」と意気込み、掲示板のネタを探して喜々としているところだが、今は坂本のプレートの件が頭から離れない。
職場でも集中力を欠き、ミスを連発してしまう。上司から軽く注意を受けると、ため息しか出てこない。疲労と、不気味な不安。それに加えて、周囲から聞こえてくるのは「また近所でカラスが騒いでいた」という噂話。「やっぱり最近、カラス多いよな」「なんか夜になると急に集合してるみたい」「気味悪くて眠れなかったよ」と嘆く同僚たち。修平は黙って彼らの会話を聞いているだけだった。下手に口を出して、「実はあのプレートが……」なんて話をすればどうなることか。
定時のチャイムが鳴るころには、修平の胸には妙な焦燥感が募っていた。カラスと行方不明者の関係――それがただの風聞や偶然の一致であればいいのに。そんなふうに祈るような気持ちが湧き上がる。今日は「あの路地裏」に行くべきか、それとも逃げるように大通りを通って帰るべきか。
だが、ネットニュースやSNS上でも「カラスの群れと奇妙な出来事」が盛んに取り沙汰されている今、確かめずにいられない気持ちもある。なぜなら、多くの行方不明者が増加しているのも事実であり、坂本の姿がいまだに見つからないのも事実だからだ。もし、そこに本当に関係があるなら、自分一人が逃げても落ち着きようがない――そう思えてくる。
終業後、まだ空が薄暗い時間帯に会社を出ると、修平はふと空を見上げた。ビルの合間に沈む夕陽が、濁ったオレンジ色に空を染めている。その色合いの中を、黒い点が何羽も群れをなして通り過ぎていく。生きものというよりは不気味なシルエットが漂うようで、修平は心がざわついた。
「今夜も、何かが起こるのか……」
そう思うと、自然に足取りは速くなる。胸の奥底に眠っていた好奇心と恐怖が入り混じり、答えを求めるかのように鼓動を高鳴らせる。夜の始まりを告げる金曜日の夕闇が、街にしだいに影を落としていく。
このまま知らぬふりをしてネットの中でレスバに興じていれば、気楽に時間を潰せるかもしれない。しかし、あの坂本の社員証が示唆する事実を知ってしまった今、もう後戻りはできない。自分の周りで起こっている何か大きな変化――そのうねりを、まだ全貌は見えないまでも、無視はできなくなっていた。
そして金曜日の夜。いつもなら掲示板を開き、煽られ煽り返すやりとりに没頭する時間帯。けれど修平はスマホを握りしめたまま、まだ書き込みボタンも押せずにいた。窓の外で、例の甲高いカラスの鳴き声がわずかに聞こえる。まるで「おい、早く出てこい」と呼んでいるようだ。
その声を聞くたびに、嫌な想像が広がっていく。もし本当に、行方不明者が“カラスになって”街を徘徊しているとしたら? 実際には荒唐無稽だと頭ではわかっていても、何かの拍子に現実でも不可能ではないかもしれないと思ってしまう自分がいる。
結局、修平は意を決すると立ち上がった。きちんと自分の目で確かめなければ、何もわからない。そう思ったからだ。夜の街で待ち受ける光景は、果たして単なる鳥の群れなのか、それとも――。
そうして玄関を開けたとき、冷たい金曜日の風が修平の髪を揺らした。外の暗闇には、どこか遠くから不気味な鳴き声の合奏が聞こえる。カラスたちの泣き声が、夜という暗幕を深く揺らし始めているのだ。喉の奥がそわそわと震え、まるで次の瞬間、自分がどこか別の世界へと迷い込んでしまいそうな気がした。