サスペンス ホラー ミステリー 中編小説

【前編】金曜日の夜、カラスたちは泣き始める

【前編】金曜日の夜、カラスたちは泣き始める
【後編】金曜日の夜、カラスたちは泣き始める

梶原修平は三十代に差しかかってからというもの、日々をただやり過ごすように生きていた。都内の中小企業に勤めるサラリーマンで、結婚の予定はない。友人がいないわけではないが、積極的に誰かを食事に誘ったりすることもない。仕事が終われば真っ直ぐに家へ帰り、ソファに倒れ込む。それがいつもの生活パターンだった。しかし、彼にはひとつだけ強い“趣味”がある。それは、匿名掲示板でのレスバトル――通称「レスバ」だった。

会社での仕事はあくまで淡々とこなし、定時ピッタリに退社。途中のコンビニで夕飯になりそうな弁当を買い、自宅へ直行する。そして着替えもそこそこにスマートフォンを片手に掲示板をチェックするのだ。自分の気に入らない意見や、過激な主張をしている相手を見つけては、前後の文脈や真意を汲まずに煽る。相手から挑発的なレスが返ってくると、ますますヒートアップしてしまう。

「お前、本当にわかってないんじゃないの?」「いや、おまえこそ何も理解してないだろ?」そんな無意味な応酬を繰り返すうち、あっという間に夜が更けていく。それでも修平にとっては、ストレスの捌け口であり、きわめて痛快な娯楽だった。画面の向こうの誰とも知らない相手を打ち負かすと、一瞬だけ自分が優位に立ったかのように感じられ、それが何とも言えない達成感につながるのだ。

今夜も、修平はいつものようにスマートフォンを握りしめ、掲示板の荒れたトピックに次々と書き込みをしていた。ネットニュースで「日本の行方不明者が年々増加している」という記事を見かけたこともあり、最近は「行方不明者が増えるのは社会情勢のせいだ」「いや、そもそも自己責任だ」というテーマでレスバを吹っ掛けている。「行方不明に自らなるわけないだろ」「社会が追い込むから逃げるしかなくなるんだ」「単に現実から逃げたいだけだろ」――そんな乱暴な言葉が渦を巻くスレッドに加わり、バチバチと火花を散らしていた。

つい先ほども、適当なデータを引っ張り出し、それっぽい理屈を並べ立てては相手を煽り、感情的な返答を誘導しようとしていた。だが、そのとき。修平はふと、妙な音に気づいた。風が窓を揺らしているのかと思ったが、そうではない。聞こえてくるのは、やたら甲高い声だった。カア、カア、と耳障りな鳴き声がしつこく続いている。

「夜のカラスか……」

不意に気味が悪くなり、修平はスマホの画面を一旦消して顔を上げた。窓の外から、まるで誰かが小石でも投げつけているかのような軽い音がしている。カラスが月明かりを背にして、窓を引っかいている――そんな光景を想像すると、背筋がすうっと冷えた。

実際にこんな時間帯にカラスが鳴き騒ぐなんて、そうそうあることではない。修平は最初、酔っ払いが近所で騒いでいるのかとさえ疑った。しかし、聞けば聞くほど、明らかにカラスの鳴き声だとわかる。それも、ひと鳴きふた鳴きと単発的ではなく、どこか人間じみた「呼びかけ」のような調子を帯びていた。

気にはなったが、もともと修平は外に出てまで何かを確かめるタイプではない。どこかで迷い込んだカラスが、夜にそぐわない騒音をまき散らしているのだろう――そう思って、無視を決め込もうとした。だが、カラスが何度も窓を小突くように感じられるほどの音を立てるので、イライラしてレスバに集中できない。

「ちょっと……なんなんだよ、もう」

ふだんは玄関の鍵をしっかり閉め、自宅のドアも極力開けたくない修平だったが、このしつこさには観念せざるを得なかった。スマホを置き、スリッパを突っかけて重い腰を上げる。ドアを開け、深夜のひんやりした空気を胸いっぱいに吸い込むと、玄関前の街灯がぼんやりと道路を照らしていた。その下に黒くうずくまっているのは、やはりカラスだった。

「うわ、気味悪……なんでこんなに近くにいるんだ?」

カラスは修平の姿に気づくと、ひときわ大きな声で鳴き、まるで誘うように羽をあげた。人をまったく恐れない様子が不自然で、修平は少し後ずさる。だが、そのカラスは数メートル先へとバサバサと羽ばたきながら移動し、道の先を見ろと言わんばかりに首をかしげた。

「……なんだよ?行けってことか?」

まさか鳥にそんな意思があるはずがない。しかし、その仕草はあまりにも目的をもっているように見える。試しにガラガラと門扉を開けて足を進めると、カラスは嬉しそうに道端を跳ねまわった。カラス――それも一羽だけではない。よく見ると電柱や塀の上、アパートの屋根など、さまざまな場所に真っ黒な小さな影が点々と佇んでいる。どこかで眠るはずの夜更けに、こんなにカラスが集まっているのは明らかに異常だった。

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