PART11
スケジュール感覚がゼロだったはずの男が、今、手帳と向き合い、自らの未来を描こうとしている。そこには“空白”ではなく、“音楽”が詰まっている。かつては嫌っていた予定表も、今は心を踊らせるための準備書類となった。まるで真っ白いキャンバスに描く色と音のように、ひとつひとつ書き込んでいくたびに、世界は拡がり続けるだろう。
それでも、彼はそこまで遠くない将来、またスケジュール? と面倒になって逃げ出したくなる日が来るかもしれない。誰でも、ずっと前向きでいられるわけではないからだ。だけど、そのときはきっと、あの“虚ろな手帳”を開くだろう。子ども時代の柔らかい視線を映すページを繰り返し眺め、そこにかすかに残された字をなぞる。そして思い出すはずだ――あの頃から自分の音は始まっていた。未来や過去を超えたところで、音楽という大いなる道と出会っていたのだと。
こうして“予定”から逃げ回っていたチェリスト・鷹野孝也は、かつての自分が残した奇妙な手帳によって、思わぬ形で音楽の本質と結びついた。スケジュールと音楽が矛盾するどころか、お互いを補い合う大切なピースだったと知ったのだ。その気づきは彼にとって、新たな一歩を踏み出す大きな力になる。表面は空白だった手帳、しかしその裏側には、過去と未来を繋ぎ、数えきれない音の嵐を撒き散らす“かけがえのない物語”が確かに息づいていた。
そして今、チェリストとしての道を歩み続ける彼の手帳には、以前とは違って、日々小さな予定が書かれている。レッスンの日時、公演のリハーサル、海外とのスカイプ打ち合わせ、スタジオでの録音日。それは忙しさを示すものでもあるが、同時に、一つひとつを確実にこなし、舞台で最高の音を奏でるための指標でもある。彼はもう、そこから逃げないし、恐れない。やがて月日が流れ、あの幼き記述が“ただの子どもの落書き”ではなく、ひとりの音楽家の運命を動かす鍵だったと、世の中に知られる日が来るかもしれない。それは、誰にもわからない未来の話だ。
しかし、一つだけはっきり言えるのは、こうして産声を上げた新たな“予定表”のページにこそ、彼が紡ぐべき音楽が刻まれているということ。そこには、迷いや葛藤を経て得た確信が、確かな形で留められている。「いつかどこかで演奏する」と書いていた幼き自分の声は、いま世界中のステージで響き始めている。そして、これから先もきっと、その音はとどまることなく遠く未来へと続いていくだろう。
――空白を恐れず、そこに音を刻む。
――手帳のページにこそ、未来の音が宿るのだ。
(完)