PART10
帰国後の孝也は、実績作りの成功を携えてさらに多くのオファーを受けるようになった。国内外の公演に呼ばれ、新進気鋭のチェリストとして注目を集める。忙しい日々が続く中でも、彼は香月と相談しながらスケジュールを組み、以前のようにギリギリになって焦ることは格段に減った。どれほど忙しくても、手帳やアプリに書き込まれた予定をまず確認し、遅れそうなら必ず連絡を入れる。そんな基本的な作業が、彼の演奏にさらに深みと安心感を与えていった。
もちろん、すべてが完璧というわけではない。ふと気が抜ければ、やはり危うくうっかり寝過ごしそうになることもある。そんなときは、手帳に残っている子どもの字を思い出し、「あの頃の俺がここまで導いてくれたんだ。だったらちゃんと起きなきゃダメだろう」と己に言い聞かせる。スケジュールを守ることは、自分が音楽を愛し、周囲に尊敬を払うことでもある――そう思えるようになったのは、大きな変化だった。
やがて、香月とも打ち合わせをしながら、彼はある演奏企画を思いつく。いまだに世間では、この“虚ろな手帳”を「予言書」と呼んで騒ぐ者が少なくない。ならば、いっそ手帳に書き込まれた不可思議な図形や数字をヒントにして、オリジナルの演奏会を企画しようというのだ。子どもの自分が残した「不完全な譜面」を、今の自分が新たに音として組み立てる。いわば「過去と未来の協奏曲」を作り上げる試みである。
これが実現すれば、あの手帳は単なる珍品でも、都市伝説の道具でもなく、本当に“鷹野孝也の音楽”を映す鏡になるだろう。そんな思いを募らせながら、孝也は舞台に向き合う毎日を送り始めた。スケジュール帳の空白を埋める作業は相変わらず苦手だが、その先に待っているステージこそが、自分自身の人生を豊かにしてくれる――そう信じられるようになったからだ。
ある休日の朝、彼は自宅の書斎で、あの祖母の家から発掘した手帳を開いていた。深いシワと汚れで読むのもひと苦労だが、そのページを何度も繰り返し見ていると、不思議とこの世の言葉ではないままに、音楽が浮かんでくるような気がする。子どもだった自分が想像していた未来。色と線の世界を見つめていたあの視線――そこには、音を楽しむ純粋な心が息づいている。孝也は微笑みながら、そっと筆を取り、余白にメモを書き足した。「2025年〇月〇日、チェロと手帳の対話コンサートを企画する」と。
それは、かつての自分が恐れていた「予定を立てる」という行為とはまるで違っていた。むしろ、“未来への地図を描く”ような、わくわくする作業だ。この書き込みを目にした少年だった自分は、きっと満面の笑みを浮かべるだろう。予定は苦しめるためにあるのではなく、夢を実現するための足がかりとして使うものだ。たとえ形は空白を埋めるだけでも、その一語一語には無限の可能性がある。まさに今、自分がそう感じ始めたのだから。
数日後、香月にそのアイデアを伝えると、彼女は「面白いじゃないですか。あの手帳を再構築したコンサート。話題性もあるし、今の鷹野さんならきっと大勢が聴きに来ますよ」と乗り気になった。そこからさらに企画書をまとめ、榊原にも相談し、あっという間に各方面へと動き出した。近い将来、公演会場には孝也のチェロの音色とともに、スクリーンに映し出された“虚ろな手帳”の不思議な図形や文字が広がり、それを解きほぐすような演奏が繰り広げられるだろう。子どものころの落書きは、過去の断片を照らし出すだけでなく、新しい音楽の扉を開く手がかりになりつつあった。