サスペンス ミステリー 中編小説

【後編】予定なき音の旅

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そして迎えたウィーンでの千秋楽。世界中の音楽ファンが一度は訪れると憧れる大きなホール。歴史と格式が深く根づいたその場所で、孝也は最後のステージに臨む。これまでの準備と練習を思うと、彼に残されているのは「全力で弾き切る」ことだけだ。リハーサルを終え、開演直前の控え室で静かにチェロの弦を指で弾いてみると、いつもよりも深く、美しい響きが耳を包んだ。まるで「ようやくここまで来たんだね」と楽器そのものが語りかけてくるようだ。

演奏が始まると、彼はいつものように弓を操り、音と対話しながら旋律を紡ぎ出す。ある瞬間、ふと空調の具合でかすかに風が弦を揺らし、音が震えた。その揺らぎに合わせるように、指揮者や他の楽器が調和を深めていく。気がつけば、ホール中が一体となり、ひとつの大きな生き物のようにうねりを生んでいた。孝也の胸に熱いものがこみ上げる。かつては嫌悪すら感じた「スケジュール」という枠組みを乗り越えて、ここに立っている自分。遅刻癖の塊だった男が、今日この瞬間を守るために必死に歩んできた道のりが、今、この音楽に集約されているように思えた。

公演は大成功で幕を閉じ、演奏後のロビーは拍手喝采と祝福の言葉であふれた。指揮者に「また近いうちに共演できるのを楽しみにしている」と握手を求められ、孝也は深々と頭を下げる。ステージから降りて楽屋に戻ると、スマートフォンが鳴り、香月からのメッセージが届いていた。「本当にお疲れさまです。このあとフライトの時間もあるので、後ほど空港で合流しましょう。手帳の扱いについて、少しお話があるんです」と。どうやら滞在延長の話など諸々、手帳関連で新しい展開があるらしい。彼は渋い表情を浮かべつつも、心にはどこか期待が宿っていた。

数時間後、ウィーンの空港のラウンジで待ち合わせた香月は、穏やかな笑顔を浮かべていた。彼女が言うには、日本の古書市場で問題視されていた“鷹野孝也の手帳”は、今回孝也が自分の手元にある実物を持っていると公表したことで、偽物の出品が一気に減ったそうだ。逆に、欲しがるコレクターたちは「本物が存在するなら、ぜひ見たい」と色めき立っていたらしい。だが孝也は、それを聞いても「売るつもりはない」ときっぱり宣言した。

「ようやく見つけて、しかも子どものころの俺が残したものだってわかったんだ。外野にどう言われようと、あれは手放すわけにはいかない。それに、不思議とあれを手元に置いてから俄然やる気が出てきたんだよね。ある意味、俺を支えてくれた記録みたいなものかもしれない」

そう言う孝也の目は、自信に満ちていた。かつては時間や日時の枠を嫌い、手帳のページを空白のままにし続けていた男が、今や自発的に未来を見据え、新たな一歩を踏み出している。香月は、その姿に安心したように微笑み、スケジュールアプリを開きながら「それなら、日本に帰ってからもしばらく予定管理をお手伝いしますよ。なんだかんだで誘われる公演も増えるでしょうし、鷹野さん一人じゃやっぱり大変じゃないですか」と申し出た。

「助かるな。ありがとう。俺、正直まだ怖いんだ。スケジュールをがんじがらめにすると、自分の自由な演奏ができなくなるような気がしてさ。でも、今回みたいにやるべきことをやってこそ、初めて舞台で自由に弾けるってわかった。案外、スケジュールって敵じゃなくて味方なのかもしれない」

彼はそう言って、チェロケースにそっと手を添える。かつての自分が「2025年にどこへ行くか」なんて予測を、落書きの形で手帳に残していたのだとしたら、まさに今こそ子どものころからの“約束の地”にたどり着いた瞬間なのだと、実感せざるを得なかった。書くことしなかったはずの手帳が、実は自分の根源的な願いを刻んでいた――そんな皮肉めいた運命を感じつつも、彼は前よりずっと気持ちが軽くなっている。

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