PART8
そして、練習初日。孝也はめずらしく30分前に会場入りし、オーケストラのメンバーや指揮者との初顔合わせをきちんとこなした。多少の緊張を伴いながらも、チェロを構えた瞬間、彼はいつものように音楽の世界に引き込まれる。クラシックの重厚な響きとともに、イタリア人の指揮者がダイナミックにタクトを振り下ろす。チェロの音色は空気を震わせ、会場に集った演奏家たちを瞬く間に統合する。初対面と思えないほどの一体感に包まれ、演奏は順調に進んだ。終了後、指揮者から「素晴らしいテクニックだ。遅刻癖があると聞いていたが、今日は完璧じゃないか」と声をかけられ、孝也は思わず苦笑いした。
だがこれは、あくまで始まりに過ぎない。この後、短期集中の国内リハーサルを経て、間を置かずに本場ヨーロッパでの練習と公演が待っていた。しかも現地のツアー日程はぎっしりで、連日ホテルとホールを往復しながらの移動生活になる。フライトの時間を一度間違えたら、演奏会に間に合わない可能性だってある。榊原はファイルを片手に「これを見ろ、日程はこう変わった、次にはこれがある」と声を張り上げ、孝也は香月が作ってくれたスケジュール表をにらむ。かつては見ようともしなかった予定欄を、今は必死で確認している自分が不思議だった。
一方、夜になると、彼はたびたびあの手帳を取り出す。表紙の汚れやページの黄ばみに指を滑らせ、子どもが書いた文字や図形を眺めると、まるで旅日記のように思えてくる。意味不明な文字列であっても、当時の自分は確かに「いつかどこかで演奏したい」という純粋な夢を抱いていたのではないか――そんな想像が彼の胸を温めた。そして、この不思議なメモ帳が、いわば「まだ見ぬ未来への地図」だったとしたら、スケジュールというよりも、自分の音楽人生そのものを指し示しているのかもしれない。そう考えると、スケジュールをしっかり組んで海外公演に臨むことすら、その“未来への足取り”の一環なのだと気づく。
やがて時は流れ、孝也はついにヨーロッパへと飛び立った。飛行機の窓の外には果てしない雲海が広がり、海を越えるたびに時差が変わる。かつては想像もできなかった精密な時間管理に追われながら、彼はチェロを抱えて次々と国境を越えていく。イタリアの古都の長い歴史を感じさせるホールでの公演、ドイツの由緒ある音楽大学でのマスタークラス指導、そしてフランスの音楽祭での夜間コンサート……気づけば、息つく暇もないほどスケジュールは詰まっていた。
それでも孝也は、遅刻一つせず公演を乗り切ろうと奮闘を続ける。疲労が重なってホテルのベッドから起き上がれないような朝でも、目覚ましと香月のメッセージで何とか体を起こし、本番前には最後の調整を怠らない。押し寄せるプレッシャーに萎えそうになる時も、ふと手帳の落書きを思い出しては、自分に言い聞かせた。「これは俺が子どものころに夢見ていた未来の風景かもしれない。そこで演奏することが、あのノートの続きを書くことになるのかもしれない」と。まるで使命でもあるかのように、ステージに上がれば、そのチェロの響きが空気を震わせ、聴衆の心を掴みとっていく。
公演の後半戦に入るころには、オーケストラの指揮者やメンバーたちも完全に孝也の演奏を認め、「これは大成功だ」「ぜひ今後も共演したい」と声をかけてくれるようになった。榊原も「さすがだな」と笑顔を見せ、香月は遠隔で連絡を取りながら「そちらの天気は大丈夫ですか? 次の移動先はかなり寒いらしいですよ」などと気遣ってくれる。孝也は今までにない達成感と充実感を味わいながら、ついにツアー最終公演の地・ウィーンへと向かうのだった。