PART4
数日後、土曜の午後。都内の喫茶店で再び香月と顔を合わせる約束をした。今回は昼下がりのまだ明るい時間帯。大きな窓から日差しが入り、豆の香りが優しく店内に漂う。チェロケースを抱える孝也が沖縄産の黒糖ミルクコーヒーをちびちび飲みながら待っていると、少し遅れて香月が現れた。彼女は軽く会釈をし、上着を脱いで椅子にかけると、テーブルの上に薄い封筒をそっと置いた。
「先日お話しした件で、手がかりになりそうな情報をちょっとまとめました。一部はまだ確証がない噂話なのですが、こういう線もあるのかと知りたくて」
差し出された封筒の中には、印刷された数枚の紙と名刺が数枚。名刺には海外のコレクターらしき人物の名前や電話番号が書かれている。どうやら香月は、自分の知り合いを総動員して、古書市やオークションで売買されている“鷹野孝也の手帳”を探してくれているようだった。いくつかのネットで流布する噂には、「手帳には日時だけでなく、暗号のような音階や不自然なコードネームが書かれている」ともある。その音階がチェリストの視点で見るとどんな意味を持つのか、香月はぜひ教えてほしいらしい。
「音階といっても、五線譜にきちんと書かれているわけじゃないんです。丸や三角のような印が書き連ねてあるだけという話もあって、どうもただの図形にも見えるみたいです。だけどコレクターはそれを“暗号”と呼んでいて、何か特別な予言やメッセージが隠されているんじゃないか…と」
「予言って、すごいスケールですね。いったいどんな未来が書かれてるんだか」
孝也は苦笑いしながらも、少しだけわくわくしている自分を抑えきれなかった。もし子どものころから音楽に没頭し、意味不明な図形を五線譜の代わりに書き連ねていたとしたら、今あらためてそれを解読したら、何か新しい曲ができるかもしれない。あるいは自分が無意識に奏でていた音楽の“原点”が、そこに眠っているのではないか――そんな淡い期待すら抱いてしまう。
一方で、香月は真面目な表情で、「やはりこの手帳が世の中に出回ると、金銭的なトラブルに巻き込まれる可能性がある」と指摘する。もし本当に高値がつくようであれば、誰かが意図的に隠匿したり、偽物を作ったりして、さらに混乱を招くかもしれない。本人である孝也が何も知らぬまま、勝手にオークションに出品されている可能性さえゼロではない。その是非を問う以前に、当の孝也には「手帳を使った覚えがない」のだから、話がややこしい。
「そういえば昔、何か書くのが好きだった子どもの頃は、祖母の家に預けられてた時期があったって母から聞いた気がします。そこに古い本が山ほどあって、落書きして怒られたこともあった……。その中にでも紛れて残ってたのかな」
記憶の奥底に眠る情景を思い出そうとしても、どうにも霞がかかったようにぼんやりしている。ただ、人は何かを「忘れる」のにもある種の理由があると言われる。ひどく恥ずかしい体験や、あるいはトラウマをともなう出来事など、思い出したくないことを無意識に封じ込める。孝也が手帳や予定に極端に抵抗感を抱くのは、もしかしたら昔の“何か”に関係しているのかもしれない。そんな漠然とした推測が頭をよぎる。
とにかく、手帳に関する確証を得るためには、ほんの少しでも心当たりのある場所を探し、実物を確認しなければどうにも始まらない。そう結論づけた孝也は、香月の助力を借りて、まずは実家や祖母の家を回ってみることに決めた。そこには父の残した楽譜がいくつもあるし、子ども時代の思い出の品も多い。今までまともに戻ったことのない幼き日の足跡を、探る旅が始まろうとしていた。
しかし、その準備を進める矢先、マネージャーの榊原から矢のような催促が届く。「海外公演のリハーサル日程が決まったから、スケジュール帳に書き込んで今度こそ忘れないでくれ!」と、電話口で声を張り上げている。カレンダーアプリの招待も飛んでくる。ヨーロッパ数か国にまたがる大掛かりな公演で、初回のリハーサルは東京でも行われるから、そこに遅刻すればオーケストラ側から信頼を失いかねない。実質、「海外と時差があるから、いつもみたいに曖昧にはできないんだぞ」と警告されているのだ。
ハッと我に返ると、チェロの稽古も進めなければならないし、手帳探しのほうも気になるしで、孝也の頭はてんやわんやだ。「大丈夫かな、俺……」とつぶやきながら、彼は真新しいスケジュール帳の表紙を開こうとする。だが、やはりペンが進まない。枠の中に文字を書き込むという行為すら、まるで鎖に繋がれるような息苦しさを感じるのだ。
「もう紙の手帳はやめてアプリに一元管理しようか」とも考えるが、アプリを使っても彼がまるで見ないのは自分でもわかっている。こうなれば少し強引にでも「自縛」を作るしかない。そう思い立った孝也は、香月に提案した。
「しばらく俺のスケジュール管理を手伝ってもらえませんか? 予定ごとに知らせてくれて、忘れそうになったら電話をかけて警告してくれるような……。ああ、もちろん無償でとは言わないけど」
驚く香月に「どうして私が?」と問われると、孝也は恥ずかしそうに笑う。「いや、君は“手帳”というキーワードを覚えていてくれる人だし、僕のためにもその存在を掘り下げてくれそうじゃないですか。マネージャーと違って、怒鳴りつけるんじゃなくて注意を促してくれそうだし……」と。香月は「元々そういう仕事じゃないんですけどね」と苦笑しながらも、頼まれるとどうにも断りづらい性格なのか、最終的には渋々承諾した。