サスペンス ミステリー 中編小説

【前編】予定なき音の旅

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孝也が、「だから僕には書いた覚えがないってば」と苦笑い混じりに返そうとしたとき、ふと胸の中にかすかな記憶の断片がよぎった。幼いころ、まだ小学校に入る前後に、やたらと色とりどりのクレヨンやペンで紙にいろいろ書き始めたころがあるような…。それらは音符だったり、半端な数字だったり、中には模様のようなものがあった気もする。自分という人間が「書く」作業を積極的にしていた時期は、たしかにほんの一瞬だけあった。しかし、それがスケジュール帳だったかと言われると、どうにも思い出したことはない。

「うーん…小学校低学年くらいのとき、落書きノートなら持ってたかもしれないけど、それを手帳なんて呼べるのかなあ?」

疑問形のまま答えた孝也に、香月は「可能性はゼロじゃないかも」と言わんばかりに穏やかにうなずいた。その目は妙に真剣で、この話をただの冗談で片づけるつもりがなさそうだった。

「念のために言っておきますと、私もまだ確信が持てていません。けれど、もしそれがあなたの遺した文字であれば、近い将来、誰かの手によって勝手に売買されるかもしれません。それってあまりに不可解ですよね。だから、失礼を承知で声をかけたんです」

普段なら面倒事は避けたい性格の孝也だが、そのときはなぜだか胸に引っかかるものを強く感じた。自分が知らない、自分自身の手帳――それもまだあどけない頃に書いた未来と過去の予定? もしそんな不思議なものが本当に存在するのなら、いったいどこでどうして保管されているのだろう。自分が書いたものなら、自分の手元にあるはずなのに……。

「すると、その手帳とやらはどこにあるんでしょうか?」

自然と質問が口を突いて出た。香月は少し唇を引き結び、視線を伏せがちに答える。

「わかりません。ただ、古書市やネットオークションの類いで、“鷹野孝也”名義の手帳らしきものが出回っているという噂を聞きました。その手に入れ方は、親族や知人が保管していたか、あるいは引っ越しの際に紛失したか……。何せ昔のことですからね。でも選り好みするコレクターも何人かいるみたいで、その手帳には奇妙な暗号があるとか、中には日付が未来を指しているとか、色々言われているんです」

そんな都市伝説めいた話に真剣に耳を傾けている自分に、孝也は気づいて可笑しくなった。普段なら、そんな面倒くさい匂いのする話は「へぇ、そうなんだ」で済ませて立ち去るのに、不思議なほど関心が湧いてしまう。彼は、自分のチェロケースを軽く確認しながら、曖昧な微笑みを浮かべて言った。

「わかりました。ちょっと気になりますし、もし本当にそんなものがあるんだったら、僕も見てみたい。あなたの連絡先を教えてもらえますか?」

こうして孝也は、その「虚ろな手帳」の話に否応なく興味を持った。一方で、マネージャーの榊原からは「海外オファーの期日管理をちゃんとやれ。打ち合わせとリハーサルの日程、ぜったい間違えるなよ」と、今まで以上に言い渡されるようになる。その日程調整は考えただけで彼の頭を痛ませた。チェロの練習や国内コンサートの予定と重ならないよう組まなければいけないし、海外公演での移動、滞在先での食事会や会議まで、何もかもカレンダーでしっかり把握する必要がある。彼が苦手とする「スケジュール」という概念を意識せざるを得ない。ましてや飛行機のフライト時間まで厳密に守らなければいけないのだから、思わず溜め息が出る。そんなときに幼少期の手帳探しなど、どこまで現実的な話なのだろうか……。

だが、それでも心が惹かれてしまうのは、自分自身が書いたかもしれない“奇妙な未来”への興味だった。過去と未来が入り混じる手帳――もし本当にそんな代物が世に存在するなら、それはまるで物語のように不思議な運命を秘めている。かつての自分が、曲がりなりにも何かを予感していたのだろうか。それとも、ただの子どもの落書きが大げさに言われているのだろうか。疑う気持ちと知りたい気持ちが入り混じり、孝也は気づくと何度もスマートフォンを手にとって、香月から届いた短いメッセージを読み返していた。

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