PART2
しかし、どうにも才能がある人間には特有の輝きがある。榊原は悩みながらも、「まあとにかくやってみよう」と孝也に相談することにした。彼がこの機会を逃すのはあまりに惜しい。事務所の名声を高めるチャンスでもあるし、何より孝也自身が新境地を拓くかもしれない。「ちゃんとスケジュールを組んで、日程を守れさえすれば、飛躍的にキャリアが伸びるはずだ」と考えたのだ。もっとも、言うは易く行うは難し。「時間感覚がゼロ」と自他ともに認める男に、カレンダーを埋め尽くすほどびっしり詰まった日々を乗り切らせる得策など、誰にも思い浮かばなかった。
そんなある午後、孝也は都内のコンサートホールでリハーサルを終えたあと、古びた楽器店の横カフェで一息ついていた。コーヒーの香りが心地よく、チェロを背負ったまま並んでいる二、三人の学生たちと音楽談義でもしようか…と考えていた矢先、見知らぬ声が彼の耳に飛び込んできた。
「失礼ですが、鷹野孝也さんですよね?」
小柄で黒髪の、落ち着いた雰囲気の女性だった。スーツ姿だが、どこかやわらかい印象があり、まっすぐこちらを見つめている。孝也が怪訝そうにうなずくと、その女性はそっと目を細めてから、視線を泳がせるように言った。
「私、ちょっと変わったものを探していまして……孝也さんの書いた“手帳”を、もしお持ちなら見せていただけないでしょうか」
孝也は一瞬「何のこと?」と首を傾げた。彼が手帳を使わないのは周知の事実であり、自分で書いた予定を他人さんに見られて困るような覚えは特にない。そもそも週一回のレッスンやら公演予定をメモしたことすらない。そのため、「手帳など書き込んだことがない」というのが本音だった。
「すみません、僕はスケジュール帳をほとんど使わない性分で……。あなたが探してるのは、僕からすれば存在しないと思います。書いた記憶がまったくないんですよ」
正直にそう告げると、女性は少し考え込むように左右に目を動かした。そして、あたかも「そう来ると思った」というように柔らかな笑みを浮かべる。
「いえ、孝也さんが小さいころに書いたものなんです。“予定”といっても、未来の予定だけじゃなくて、過去を表すような奇妙な書き込みがあったと聞いてまして。私も詳しいことは知らないのですが、非常に高価な値段で取引されているんです。輸入古書を扱う知人から、その噂を偶然耳にしましてね」
過去と未来が書かれた手帳? そんな荒唐無稽な話を聞かされても、孝也は「冗談じゃないよ」と笑い飛ばすしかなかった。同時に、なぜこの女性がそんなおかしなものを求めて動き回っているのか、不思議でもあった。表情こそ柔らかで真面目そうだが、もしかすると何かの詐欺の一環かもしれない――そう考えてもおかしくない話だ。
「申し遅れましたが、私は香月(かつき)といいます。音楽とは関係のない仕事をしているので、いささか場違いかもしれません。でも、あなたがもしその“手帳”を前に書いたのなら、本当に手放さないほうがいい。過去や未来を示唆する暗号っぽいものが綴られているらしくて、持ち主が知らぬ間に、高値で競り落とそうという連中がいるようなんです」