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【前編】予定なき音の旅

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【前編】予定なき音の旅
【後編】予定なき音の旅

鷹野孝也(たかの たかや)は、生まれてこのかた一度もスケジュール帳をまともに使ったことがなかった。いや、使わないどころか、「〇月〇日、何時にどこへ行く」といった時間管理の概念が、ほとんど彼には存在しないと言ってよかった。スマートフォンの通知アプリを使ってみたこともあるし、サインペンでメモ書きをした紙切れをポケットに突っ込んだこともある。だが、いざ予定の時間が近づくと、「あ、どうせ間に合わないし、後で謝ればいいか」という気持ちが先立ち、結局すべてスルーしてしまう。特徴的なのは、そうしたずぼらさを自覚して難儀がっているものの、彼の周りの人々までもが、なかば呆れながら許容してしまうという点だろう。

なぜなら、孝也は“プロのチェリスト”であり、しかも才能がずば抜けていた。幼いころからチェロの演奏に触れる機会に恵まれ、大人顔負けの技巧を身につけていたという。中学生の頃、地元の音楽祭で飛び入り参加した際には、アマチュアのはずなのにプロ並みの弦の響きを存分に聴かせ、聴衆を驚かせたほどである。音楽大学に進んだ後は、いくつもの国内コンクールで入賞し、やがて名の知れた若手チェリストとして活躍するようになった。悠々自適と言えるほどではないが、ステージに立てば観客から大きな拍手を浴び、そこそこ贅沢を楽しめるくらいの報酬も得ている。チェロを弾き始めると集中力は目を見張るほど研ぎ澄まされるが、ひとたび日常に戻ると、彼は時計の針をググッと戻したくなるようなほどの「時間感覚の曖昧さ」を発揮するのだった。

携帯するスケジュール帳は一応ある。オーケストラとの契約や、小さなライブの請負契約でも、スケジュールの提出は必須だからだ。ところが、鞄やデスクの上にいつも転がっているその手帳には、不思議なくらい何も書き込まれていない。まるで飾りのように白紙のまま放置されていた。真新しいページにいくつかの落書きがあるくらいで、演奏会の日時やレッスンの約束などは一切記入されていない。このことに呆れた友人が「手帳の意味、わかってる?」と尋ねても、孝也は「うーん、でもなんか息苦しくなるんだよね、ああいう予定をきっちり書かれてるの見ると」と肩をすくめる。日常に向き合う集中力はほとんどゼロに近いのに、舞台に上がった瞬間だけは神がかった集中力を発揮する――そんな両極端な性格も手伝って、周りは彼を突出した天才型として受け入れているようだった。

とはいえ、彼のズボラな時間管理のせいで苦労する人も多かった。とりわけ自宅兼事務所でマネジメントを担当する戦友のような存在のマネージャー・榊原(さかきばら)は、ほぼ毎月のように孝也に説教をする。たとえば「明日のリハーサルは13時スタートだから10分前には会場入りしろ」と口酸っぱく言っても、平気な顔で13時半に現れることがある。開演当日こそ、恐ろしいほどの集中力で必ず本番に間に合わせるが、極度の遅刻癖はどうしても直らない。それでも、どこか周囲は彼のチェロの腕前に惚れ込んでいるせいか、きつく叱れずにいるのだ。

そんな彼のもとに、ある日、予想もしなかった特別オファーが届いた。海外の一流オーケストラからの客演依頼である。近年、ヨーロッパやアメリカではアジア系演奏家の評価が急上昇しており、その波に乗って、日本の若い天才チェリストとして名のある彼に白羽の矢が立ったのだ。内容はかなり本格的なツアーで、複数都市にまたがる海外公演に加え、現地の音大生との交流やマスタークラスなども予定されているという。もちろん、あまりにも大きなプロジェクトゆえ、事前のリハーサルから現地での打ち合わせなど、みっちりとしたスケジュール管理が要求される。いわゆる「本当に忙しい演奏家でなければこなせない」レベルの話だ。マネージャーの榊原ですら、このオファーを読んで最初に感じたのは「孝也には無理では?」という不安だった。

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