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【後編】少年と逆さまの猫

翌朝は陽ざしがくっきりと差し込み、昨日の曇天が嘘のような爽快な青空が広がっていた。光輝はいつもより早く目を覚まし、「今日は猫を迎えに行く日だ!」と跳ね起きる。父と母も既に支度を始めていて、朝のリビングはどこか浮足立った空気に包まれていた。

「荷物は全部そろった? 父さんの車で行くから、必要なものをリストアップしとけよ」

父が声をかけると、光輝は前もって作っておいたメモを取り出し、指さし確認を始める。キャリーケース、タオル、トイレ用の砂、そしてお迎え後に置く予定のキャットフード。全部チェックしたところで、母が「まあ、本当に忘れ物があったら後で買えばいいわよ」と笑いかけた。

バタバタと家を出た頃には、もう午前中の診療が始まっている時間だった。車に乗り込むや否や、光輝はうきうきと外を眺める。父は「落ち着け」と言いながらも、その声はどこか楽しそうで、母も「こんなに早起きしてくれるなんて珍しい」と小さく微笑んでいる。

病院に到着すると、昨日とは違う看護師が受付にいて、「お待ちしてましたよ」と言って笑顔で案内してくれた。診療室に通されると、例の白衣の女医が「おはようございます」と声をかけ、一通りの手続きを説明してくれる。

「退院後はしばらく様子を見ながら投薬を続けますね。ご自宅で目ヤニや傷口の状態をチェックしてみてください。何か気になることがあればすぐ電話を」

その後、小さなケージの中からゆっくりと抱き上げられて姿を現した猫は、昨日より表情が穏やかだ。包帯こそまだ巻いてあるものの、傷は着実に回復しているのがわかる。光輝が静かに手を伸ばすと、猫はくんくんと匂いをかぎ、短く鳴いてから体を預けるように寄り添ってきた。

 「もう大丈夫だよ。これからはうちにおいで」

光輝はそっと抱きしめる。そのあたたかな感触に、猫がほんの少し心を開いてくれたように感じる。両親もその様子を見守り、胸をなで下ろした。

会計を済ませ、病院を出たあとは、キャリーケースに入れられた猫を車に乗せて家へ向かう。外の景色を見つめる猫は、不安と好奇心が入り混じった目をしているようだった。光輝は優しく声をかけ、「もう少しで着くからね」とキャリーケースの上からそっとなでてあげる。人間の言葉はわからなくとも、その響きを通してやさしさが伝わってくれればいい――そんな想いで車内の時間を過ごした。

自宅に着くと、まずは用意した静かな部屋に猫を通した。新しい環境に急に広い空間を与えると恐怖を感じるかもしれないという獣医のアドバイスを受け、ケージやベッドは部屋の隅にまとめて配置してある。窓からはやわらかな日差しが入り、猫にとっても落ち着きやすいだろうと母は考えた。

キャリーケースの扉を開けると、猫はしばらく周囲をうかがい、鼻先を床に当てて匂いを確認する。その姿をじっと見守る光輝の胸は高鳴りっぱなしだ。しばらくして猫はふっと息をつくように小さく鳴き、用意されたクッションの上に前足を乗せて、まるで「ここはどんな場所だろう」と考えるかのように辺りを見回す。

「名前、どうしようか」光輝が問いかけると、父は腕組みをして「そうだなぁ……」と考え込み始める。母は「グレーの毛並みだから“グレイ”、なんて単純すぎるかしら?」と笑うが、光輝は首をひねった。

父は少し遠くを見るような目をして、まるで昔懐かしい記憶を探るかのように言った。「俺が子どもの頃住んでた家には、よく“ミケ”っていう三毛猫が遊びに来てたんだけど……あれはもう何十年も前だよなぁ」妙に懐かしそうな声色だ。光輝は父にこんな一面があるとは知らず、新鮮な驚きを覚える。家族それぞれが思いついた名前をあれこれ出し合うが、なかなかピンとくるものがない。

「まあ、焦らなくてもいいよ。猫の様子を見ながら、自然にこれだ! って思う名前をつければいいんだからさ」そう言って、母がケージの脇に置いた餌皿にキャットフードをそっと入れる。小さい粒がさらさらと音を立て、猫がそれに気づいて耳をピクリと動かした。

見る見るうちに、猫はクッションから餌の方へ近寄っていき、ひとつつまむように口へ運ぶ。そして噛みしめる仕草をすると、またもう一粒……と少しずつ食べ始めた。嬉しそうな光輝の表情に母は「大成功ね」と言い、父も「意外と落ち着いてるもんだな」と感心する。

その日の午後、インターホンが鳴った。ドアを開けると、そこには作業着姿の大河の姿があった。どうやら猫の退院のタイミングを聞きつけて、様子を見に来てくれたらしい。

「邪魔じゃなかったか? 休みの日に悪いな」

大河がそういうと、光輝は勢いよく首を振る。「いえ、ありがとうございます! ぜひ猫を見ていってください」

リビングへと案内すると、大河は部屋の隅でゆったりと身を丸める猫を見つけ、「おお、もうこんなに落ち着いてるのか」と目を丸くした。

「しばらくは傷が痛むかもしれないけど、日に日に良くなりそうだな。やっぱり家があるってことは、安心できるんだろうね」そうつぶやく大河の声には、深い安堵と喜びがにじんでいた。

光輝はふと思いつき、「そうだ、名前はまだ決まってないんです」と大河に投げかける。「何かいい案ありませんか?」

大河は腕を組みながら、少し顎を突き出して猫を見つめた。ふと視線が“ネコ”――あの一輪車を連想させるかのように、猫の丸まった背中をじっと眺める。

「そいつの背中を見てると、どうもあの現場にある一輪車を思い出すんだよなぁ」

父と母も笑みをこぼし、光輝は「確かに現場の人たちは一輪車のことをネコって呼んでますもんね」とうなずく。あれがきっかけでこの猫を救うことになったのだ。だったら、そこにちなむ名前も悪くないかもしれない――しかし、音の響き的にそのまま「ネコ」というのは少し変かも、と光輝は考える。

「せっかくなら、現場用語の『ネコ』とはちょっと違う響きの呼び方がいいですよね……」

皆で話し合ううちに、猫はクッションのうえでのびをし、ちょうど背中が大きく弧を描いた。まるで一輪車が逆さまに置かれているように見えるその丸まったシルエットに、光輝の胸にあるアイデアが浮かぶ。

「じゃあ、『コロン』……なんてどうかな? 丸くなる姿がコロンとしてて可愛いし……」

自分でも少し照れくさい提案だが、母が「いいわね」と笑顔を向け、父も「覚えやすいし、明るい響きだ」と即座に賛成してくれた。

「コロン……か。いい名前だな」

大河も穏やかな声で賞賛してくれる。こうして、猫の仮の名前は「コロン」に決まった。俄然みんなが「コロン、コロン」と呼びかけるたび、猫が耳を動かして小さく鳴くのがおかしく、家の中が一気に明るくなった。

大河は「ここまで元気になって本当に良かった」と、まるで自分のことのように喜んでくれた。帰り際には、「また何かあったら連絡くれ。子猫のケガとか、猫用バリカンなんかも持ってるやつがいるから紹介するぜ」と頼もしい言葉を残して去っていった。

光輝は玄関先で大河を見送りながら、建築現場でのあの眩しい炎天下や、雨の日、そして逆さになった“ネコ”たちを思い返す。ほんの数日の出来事だったはずが、すごく大きな変化をもたらした気がする。道具も命も、大切に扱う。ほんの少しの気遣いが、大きな違いを生むということを知った。

こうしてコロンは、光輝の家の新しい家族になった。まだ困り顔で隅っこに隠れたり、大きな物音にびっくりしたりと、慣れない暮らしに戸惑う姿も見せる。それでも日々を重ねるごとに、少しずつ家族との距離が縮んでいった。深く丸まって眠る姿は、まるであの現場で使われる“ネコ”のよう。優しく抱きしめれば、その体温と毛ざわりが、なんとも言えないしあわせを運んでくれる。

家族が積み上げた思いやりと、道具への敬意が、人と猫をつなぐ。雨の日に一輪車を逆さまにするような、そんな小さな気遣いが、大きなぬくもりへとつながっていくのだ――光輝はそう実感しながら、コロンをそっと撫でた。

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