放課後、薄曇りの空の下を歩く光輝の胸は、期待と不安でざわついていた。昨日の雨は上がったものの、アスファルトにはまだ水たまりがあちこちに残っている。風が吹くたび、どこか肌寒さを感じた。建築現場の入口に差しかかると、案の定そこには作業員たちが忙しなく行き来している姿があった。トラックが砂利を荷下ろししている脇で、溶接の火花が散っている。普段なら圧倒されて近寄りがたい雰囲気だが、今回は違った。光輝には、どうしても確認したいことがある。
「すみませーん!」
光輝が勇気を出して声を張り上げると、大柄な男性がふり返る。あの大河に似ているが、別の人のようだ。少し戸惑っていると、その男性は苦笑いを浮かべた。「大河さんか? ちょっと待てよ、今呼んでくるから」彼がそう言って現場の奥へと姿を消すと、ほどなくして例のジャケット姿の大河が姿を現した。昨日雨の中で見かけたときよりも、すこし表情が柔らかい気がする。
「坊主、来たのか。猫のことで、だろ?」
光輝はうなずきながら口を開く。「あの……猫はどうなりましたか? それと、ひと目だけでも会えたら嬉しいんですけど……」
その言葉に、大河は近くのパイプ椅子をすすめてくれた。ちらりと作業員同士のやり取りを見やり、すぐに腰を下ろして光輝の目線に合わせる。
「悪いが、まだここにはいないんだ。昨日すぐに獣医に連れていったら、傷は軽いけど感染予防のため少し預かってもらうことになったんだよ。身体が小さいしな、念には念を入れておいたほうがいいってことでな」
「そう、なんですね……」光輝は少し落胆するが、大河の言葉には安堵の色も混ざっているように感じた。彼らがしっかりとケアをしてくれるならそれが一番いい。
「実はさ、あの猫、うちの作業員のなかにも飼いたいって言うやつがいてさ。まぁみんな猫好きなんだろうな、結構よく現場に迷い込むからなあ」 光輝の胸に、ちりちりと焦りに似た気持ちが生まれる。ここで誰かが引き取ってしまったら、自分が手を差し伸べる機会はなくなるのではないか――そんな思いがかすめ、ガタンと椅子から腰を浮かせる。
「僕、もしかしたらあの猫を引き取りたいって思ってるんです――まだわからないですけど、親に相談してみて、もし可能だったら……」
急に熱っぽく語る光輝に、大河は目を丸くした。しかし、すぐにやわらかな笑みに変わる。
「ああ、もちろん。まずはおまえん家の事情をちゃんと確認しなきゃならんな。焦っても猫が不幸になるだけだし、そこは慎重にでも、ちゃんと考えてやってくれ」
光輝は素直にうなずいた。小学校の友だちが「猫いいなー」と会話しているのを聞いたことがあるが、飼うのは責任が要る。土曜も日曜も餌をやり、しつけや健康管理にも気を配らなくてはいけない。何より、寂しがりやになりやすい猫の性格を考えると、両親が不在の時間が長い家に迎え入れることが猫にとって幸せなのかどうか――。
それでも「飼いたい」という気持ちは光輝の心のどこかで強く叫んでいる。あの身を震わせていた野良猫を見捨てられなかった瞬間、光輝は自分の中にもやさしさと行動力が同居していることを知ったからだ。大河の言うとおり、まずは家に帰って両親とちゃんと話してみよう。
話を終えた光輝は、出入口付近に置いてある例の“ネコ”――一輪車に目を留めた。逆さにされた底の丸みを指先でなぞってみると、ほんの少しの汚れが付いていてコンクリートのかけらのようなものがポロリと落ちた。
「これも、使い終わったら僕らの手で拭いてあげてるんだぜ」大河は誇り混じりの声で言う。「大事にすればするほど、道具は応えてくれる。むやみに放りっぱなしにしてたら、すぐガタがくるからな。そいつ(ネコ)の底に雨水やゴミがたまらないようにっていうのは、俺たちの当然の習慣なんだ」
「……猫といっしょですね。うずくまって丸まる姿を想像しちゃいます」
ぽつりとつぶやく光輝の横顔を見て、大河は少し笑ってみせた。
「はは、そっくりだな。今度、あの本物の猫にも、しっかり居場所を作ってやるといい。もし飼うとなったら、おまえがちゃんと面倒を見てやれるかどうか、それがいちばん大事だ」
その言葉に、光輝はまっすぐにうなずく。猫の写真すら撮れないまま帰るのは正直寂しいが、ここで立ち止まっている時間はもうない。家に帰ったら両親に話そう。誠意をもって、自分がどれだけ期待と責任感を感じているかを伝えたい。
帰り道、光輝は少し小走りになった。雨上がりの水たまりを軽々とジャンプするたびに、心が弾んでくる。もし両親が「いいよ」と言ってくれたら――新しい生活が始まるかもしれない。同時に、もし反対されたらどうしよう……という不安もある。しかし、大河や職人の人たちがそうしているように、自分も猫にとって最善の道を探してあげたい。引き取るか、それとも信頼できる誰かに託すか。どちらにしても、猫と向き合うことが大切なのだ。
「絶対に、また会おう」
光輝は心の中でそう誓い、夕焼け色の街並みを駆け抜けていく。