夕方になり、外の光が少しずつ柔らかくなってきた。優子は冷蔵庫を開け、中身を確認する。食材は、ほとんど手付かずのまま。この三日間、コンビニ弁当で済ませてきた。
「そろそろ、なんか作らなきゃ…」
台所に立つ気力もないまま、スーパーに行くことを後回しにする。食欲すら、あまり感じない。
テレビをつける。画面には、夏祭りの賑やかな様子が映し出されている。浴衣姿の若い女性たちが、スマートフォンで自撮りをしながら笑っている。優子は自分の浴衣を思い出した。クローゼットの奥に、3年前に着たきり。
携帯の画面に目を移すと、母からのメッセージが届いていた。 「お盆には帰ってくる?」
返信の言葉が見つからない。実家に帰れば、きっと母は心配そうな顔で優子を見るだろう。「そろそろ…」という言葉を、遠回しに口にするかもしれない。それに耐える自信が、今の優子にはなかった。
「仕事が忙しくて…また今度ね」
送信して、すぐに携帯を裏返しにする。嘘が重なっていく。その度に、自分が少しずつ小さくなっていくような気がした。
風呂に浸かりながら、鏡に映る自分を見つめる。昔より、確実に疲れた顔をしている。目の下のクマは、化粧では隠しきれなくなっていた。
「30歳か…」
数字を呟きながら、優子は湯船に深く沈む。同い年の友人たちは、既に人生の新しいステージに立っている。結婚して子供がいる人、キャリアを積んで管理職になった人、起業した人…。
水面に浮かぶ自分の姿が、歪んで見える。
パジャマに着替え、ベッドに横たわる。天井を見上げながら、明日のことを考える。でも、特別なことは何も思い浮かばない。明日も、明後日も、その次も。ただ時間が過ぎていくだけ。
スマートフォンのニュースフィードを眺めていると、「30代女性の生き方」という記事が目に入る。開いてみれば、そこには「自分らしく生きる」「新しいことにチャレンジする」といった、どこか空々しい言葉が並んでいた。
「自分らしく…か」
その言葉の意味すら、もう分からなくなっていた。
枕に顔を埋める。暗闇の中で、蝉の声だけが聞こえてくる。今年の夏は、特別暑いらしい。でも、優子の心は妙に冷たいままだった。
明日も、また同じ一日が始まる。変わらない日常。止まったような時間。それでも、どこかで何かが変わることを願いながら、優子は目を閉じた。
エアコンの音が、子守唄のように響く。夜が更けていく。 窓の外では、まだ蝉が鳴いていた。その声は、どこか切なく、優子の心に響いた。
夢の中でも、時計の針は進み続ける。けれど、その音すら、もう聞こえなくなっていた。