朝の列車に乗り込む前、優子は最後にもう一度、海を見に行った。昨日とは違う朝の光の中で、波は穏やかに打ち寄せている。
「行ってらっしゃい」
見送りに来てくれた女将が、手を振る。その隣には老婆の姿もあった。
「また来なさいよ」 「はい、必ず」
今度は誓いのような言葉だった。
列車の窓から見える景色が、徐々に都会へと変わっていく。昨日までの優子なら、この変化に憂鬱を感じただろう。でも今は違った。
スマートフォンを取り出し、カメラロールを開く。青年が送ってくれた写真を見つめる。波打ち際に立つ自分の姿。それは確かに「寂しそう」ではあった。でも、その寂しさは、決して否定的なものではない。
誰かと一緒じゃなくても。 誰かに認められなくても。 今の自分は、それでいい。
携帯が震える。美咲からのメッセージだった。 「結婚式の写真、送るの忘れてたの。よかったら見て」
ためらうことなく、優子は添付された写真を開いた。幸せそうな友人の笑顔。それを祝福する仲間たち。
「おめでとう。素敵な写真ね」
すぐに返信を送る。もう、逃げる必要はないと感じていた。
東京駅のホームに降り立つ。いつもの雑踏。せわしない人々。 でも、その中に立つ自分は、少し違っていた。
キャリーケースを引きながら、優子は空を見上げた。 東京の空は、相変わらず建物に区切られ、狭かった。 でも、その向こうには、確かに海があって、空が広がっている。 それを知っているだけで、世界は少し違って見えた。
明日からは、また日常が始まる。 でも、それは「止まった時間」ではない。 確かに流れている時間の中で、自分なりの一歩を、ゆっくりと進んでいけばいい。
優子は、久しぶりに満員電車に身を任せた。 心の中で、波の音が、まだ静かに響いていた。
<完>