砂浜に足を踏み入れた瞬間、熱さに思わず足を引っ込める。サンダルを手に持ち、少しずつ波打ち際まで歩む。潮が引いた後の砂は固く、歩きやすかった。
誰もいない浜辺で、優子はしばらく佇んでいた。波の音。潮の香り。遠くかもめの鳴き声。それらが、都会で積もった心の埃を、少しずつ洗い流していくような気がした。
「あ、すみません」
後ろから声がする。振り返ると、カメラを抱えた青年が立っていた。
「この辺りの写真を撮っているんですが、もしよければ、モデルになっていただけませんか?」
突然の申し出に戸惑う優子。しかし、青年の真摯な表情に、どこか安心感があった。
「私で、よろしければ…」 「ありがとうございます。ちょうど夕陽が綺麗な角度になってきて」
青年の言葉に、優子は初めて空を見上げた。確かに、太陽は西に傾き始めていた。時計を確認すると、もう5時半。
「あ、すみません。6時には戻らないと」 「大丈夫です。数枚だけ」
シャッター音が響く。波と戯れる足元。空を見上げる横顔。髪をなびかせる後ろ姿。
「素敵な写真が撮れました。ありがとうございます」
青年はカメラの画面を見せてくれた。そこには、優子の知らない優子がいた。寂しげでもなく、空虚でもない。ただ、静かに佇む一人の女性の姿。
「私って、こんな風に見えるんですね」 「風景に溶け込んでいる感じが、とても良かったです」
青年は連絡先を渡してくれた。写真が現像できたら送ると言う。
宿に戻る頃、空は茜色に染まっていた。玄関で待っていた女将が、優子を屋上に案内する。
「ほら、始まるわ」
女将の言葉と共に、港の方から音が聞こえてきた。漁船のエンジン音。次々と出港していく船の明かりが、夕暮れの海に光の帯を描いていく。
「毎日この時間に、イカ釣り船が出ていくの」 「きれい…」 「でしょう?私も、50年見てるけど飽きないわ」
女将は優子の隣で、懐かしむように港を見つめていた。
「大切な人を見送るみたいで、少し切ないけど。でも、必ず帰ってくる。それが分かってるから、寂しくはないの」
その言葉が、優子の心に深く沁みた。
夕食は、地元の魚と老婆が届けてくれた野菜。素朴だけど、温かい味わい。食後、部屋に戻った優子は、長い手紙を書き始めた。実家の両親に。友人の麻美に。そして、美咲にも。
今まで避けてきた言葉が、すらすらと紙面を埋めていく。
窓の外では、満天の星空が広がっていた。 明日は、もう帰る日。 でも、この旅で見つけた何かを、これからの日常に織り込んでいける。そんな確信が、静かに芽生えていた。
「ただいま」と言える場所は、きっと自分の中にもあるのだと。 優子は、そっと目を閉じた。波の音が、子守唄のように響いていた。