早朝の駅のホームは、意外なほど人で溢れていた。夏休みシーズンの移動ラッシュ。家族連れ、若者グループ、カップル。それぞれの目的地へ向かう人々の間で、優子は一人、小さなキャリーケースを握りしめていた。
「本当に、行っちゃうんだ…」
不安と期待が入り混じった気持ちを抱えながら、列車に乗り込む。窓際の席に座り、ホームを見つめる。このまま引き返すことだってできる。そんな考えが頭をよぎったが、発車のベルと共にその思いは吹き飛んでいった。
車窓の景色が流れ始める。都会の雑然とした街並みが、徐々に郊外の風景に変わっていく。携帯の画面を開こうとして、優子は思い直した。今回の旅では、できるだけSNSを見ないことにしよう。そう決めていた。
「あの、こちらお弁当いかがですか?」
車内販売の女性の声に、優子は少し驚く。朝食を食べていなかったことを思い出し、迷わず購入した。
「いただきます」
久しぶりの駅弁。割箸を割り、蓋を開ける。なんの変哲もない幕の内弁当なのに、どこか特別な味がした。
窓の外では、田園風景が広がっていく。青々とした田んぼ。点在する民家。遠くに見える山々。見慣れているはずの日本の夏の風景が、新鮮に映る。
「もしもし、優子?」
突然の着信に、心臓が跳ねる。会社の上司からだった。
「申し訳ありません。急な休暇で…」 「ああ、いや、心配してね。いつもと様子が違うから」
優子は少し戸惑った。いつもと違う様子。それは、周りの人にも見えていたのだ。
「大丈夫です。ちょっと、旅に出てみようと思って」 「そう。それは良かった。たまには自分のために時間を使うのもいいことだよ」
電話を切り、優子は深くため息をつく。でも、それは重たいため息ではなかった。どこか、肩の力が抜けていくような感覚。
列車は海岸線に入り、車窓に青い海が見え始めた。キラキラと光る水面に、優子は思わず見とれる。地図アプリで確認すると、目的地まであと2時間。
優子は静かに目を閉じた。久しぶりに、心地よい眠気が襲ってくる。揺れる列車の音を聞きながら、彼女は少しずつ意識を手放していった。
目覚めた時、車内アナウンスが流れ始めていた。 「まもなく、○○駅に到着いたします」
シートに深く腰掛けていた体を起こし、優子は荷物を整える。心臓の鼓動が、少し早くなっているのを感じた。
列車が徐々にスピードを落とし、小さな駅のホームに滑り込んでいく。優子は深く息を吸い込んだ。
ドアが開く。潮風の香りが、車内に流れ込んでくる。 これから始まる物語の、第一歩を踏み出す時が来たのだ。