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郵便受けから取り出した雑誌の束を、優子は無造作にテーブルの上に置いた。いつも読まずに捨てている無料情報誌たち。今日もそのまま廃棄するつもりだった。
しかし、一番上に置かれた旅行雑誌の表紙が、優子の目を捉えて離さない。夕陽に染まる海。白い砂浜。どこか懐かしいような、でも見たことのない風景。
「きれい…」
思わず手に取る。ページをめくると、そこには『夏の終わりに訪れたい、隠れた名所』という特集が組まれていた。観光地として有名ではない、小さな漁港町の紹介。白を基調とした民宿。路地裏の古い商店街。地元の人々の穏やかな笑顔。
優子は急に、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
「行きたい」
その言葉は、まるで誰かに導かれるように、自然と口から零れた。
「でも、一人で…」
躊躇いが頭をよぎる。しかし、それは不思議なほどすぐに消え去った。むしろ、「一人だからこそ」という思いが、強く心を動かし始めた。
スマートフォンを手に取り、掲載されている宿を検索する。予約サイトには、まだ空室があった。画面に表示される「予約する」のボタンを見つめる手が、少し震えていた。
「どうせ、このまま夏休みが終わっちゃう」 「どうせ、また後悔するんだ」 「なら…」
深く息を吸い込んで、予約ボタンを押した。
明後日からの3泊4日。画面に予約完了の文字が表示される。決済が終わり、予約確認メールが届く。すべてが、あまりにもあっけなく完了してしまった。
「私…旅行に行くんだ」
実感が湧かないまま、優子は立ち上がった。クローゼットから小さなキャリーケースを取り出す。3年前の社員旅行以来、使っていなかったそれは、薄く埃を被っていた。
何を持っていけばいいのか。どんな服を着ていけばいいのか。すべてが分からない。でも、その「分からなさ」が、不思議と心を軽くしていく。
テレビをつけたまま荷造りを始める。天気予報では、行き先の町も晴れが続くという。「残暑が厳しい日が続きそうです」というアナウンサーの声が流れる。
「暑いのは、このままでいるよりマシ」
そう呟きながら、優子は久しぶりに笑みを浮かべていた。