続き
夜明けが近づく頃、空は少しずつ群青色から薄明るい藍色へ移り変わっていた。町はまだ眠っているが、遠くの高速道路を走るトラックの音が聞こえ始める。交差点もわずかに冷たい朝の風が吹き、ぼくの柱に小さな震えを感じさせる。とはいえ、ぼく自身が「寒い」と思うことはない。信号機は温度を感じないから。ただ、この時間帯になると、もう少しで市場へ急ぐトラックの運転手や新聞配達のスクーターが増えるだろうと、ぼくはなんとなくわかるのだ。
そんな薄明の空気の中で、あの青年がようやく顔を上げた。その表情にはまだ疲れや戸惑いが色濃く残っているが、ふっと何かを思い出したように、瞳がわずかに揺れたように見えた。ぼくが青信号に切り替わると、彼はしばらくためらったのち、ゆっくりと右足を持ち上げ、一歩を踏み出した。まだ周囲を見回しながら、どこへ行くかも定まらない様子。それでも、昨日の夜から一度も動かなかった足が動き出したのだ。ぼくには歓声をあげることはできない。でもその一歩は、彼にとってきっと大切な一歩なのだろうと思う。思わずぼくの青が、少しだけいつもよりまぶしく点灯しているような気さえした。
彼は渡り終えたあと、反対側の歩道で立ち止まり、振り返ってぼくのほうを見上げた。ほんの少し、不思議そうな顔をして。そして、静かに息を吐くと、まるで決心がついたかのように肩を大きく上下させた。そのまま白む空のほうに向かって歩き始め、やがて街角のビルの陰に姿を消していった。結局のところ、彼が再び歩みを進めた理由が何だったのか、ぼくにはわからない。思い出したきっかけがあったのかもしれないし、ただ立ち尽くしている自分に嫌気がさしたのかもしれない。でも、そのとき青く灯ったぼくが、もし彼の背中をわずかに押す役割を果たしていたなら――それだけでぼくは満足だった。
やがて朝の光が町を照らし始め、再び学生や会社員が増えてくる。いつものようにぼくは赤、青、黄を繰り返し、車の流れをコントロールする。あの青年の姿はどこにも見当たらない。けれど、考えてみれば、この場所を何年も見てきたぼくだって、人生の先を歩み始めた誰かが、また戻ってくることをいくつも見届けてきたのだ。かつて子どものころは親の手を引かれていた人が、成長して自転車で横断歩道を駆け抜ける姿。留学に旅立った大学生が数年後、就職して別の社員たちと歩く姿。何年も経って出産した女性がベビーカーを押しながら笑って渡る様子。そしてまた、その子どもが大きくなって……。交差点とは、さまざまな人生が交差し、再びどこかへ流れていく場所。誰かが立ち止まり、誰かが歩を進める。ぼくはただ、きょうも変わらない光を繰り返すだけだ。それでも、この変わらない存在が人々にとって何かしらの支えになるとしたら、それはとても幸せなことだと、ぼくは思っている。
昼を過ぎ、夕方が近づくと、また町は別の表情を見せる。夏なら熱気が残り、冬なら冷たい風が吹き抜けるが、今日のところは穏やかな秋の日差しが交差点を照らしている。あの青年が歩き去ってから一日が経つ。ぼくはあれ以来、彼がここを再び訪れるのかどうか、時々無意識に気にしている自分がいる。信号機であるぼくにとっては、特別に心を動かされた存在だったのかもしれない。ありふれた町の交差点で、夜通し立ち尽くしていた誰か――自然と、ぼくの記憶に刻まれている。
しかし、唐突な再会は訪れない。夜になると再び町はゆるやかに静まり、人々は家路や飲みの席へ急ぎ、ぼくは規則的に光を移り変える。交差点にドラマがない夜などない。それでも、あの青年ほど長い時間立ち止まる人を、ぼくは他に見たことがない。彼が今どこで何をしているのか、機械であるぼくには考える術もないのに、どういうわけか心の奥で気にかかる。
それでも、ぼくの毎日は変わることなく過ぎていく。朝になれば登校中の子どもたちが渡り、昼になれば会社員や買い物客が行き交う。夕方の混雑時間帯を過ぎると、また夜へ向かって町は静かになっていく。そんな繰り返しの中で、ぼくができることはひとつだけ。いつだって赤や青、黄の光を絶やさず、ここに立ち続けること。それがぼくの役目であり、意味なのだと思う。
あの青年がどんな道を歩むのかも、今のぼくにはわからない。けれど、もしまた同じように夢を見失い、途方に暮れて、この交差点に立ち尽くす日が来たとしたら――ぼくはまた青の光を灯して、「進んでもいいんだよ」と伝えたい。人はみな、それぞれのタイミングで躓き、悩み、立ち止まる。でもそれらの瞬間は、次の一歩を踏み出すための大切な止まり木なのかもしれない。ぼくはそれを信じて、今日も灯をともすのだ。痛みや悲しみを感じることはできなくても、人間が抱えるささやかな希望や、再び前を向く力を、きっとぼくは見守ることができるから。
こうして一日が終わりかけるころ、夕焼けは群青色へと変わり、町のあちこちの窓に明かりがともり始める。夜がまたやってくる。遠くには高層ビルのきらびやかな照明、近くにはコンビニの看板の光が、行き交う車や人々のシルエットを浮かび上がらせる。ぼくは、またいつも同じように赤から青へ、そして黄へと変化を繰り返す。
だが、そんな繰り返しの中にも、確かに誰かの人生が存在しているし、その人生の一部をぼくは照らしている。立ち止まっても、また歩み出してもいい。赤の間は焦らずに待ち、青に変わったときは勇気を出して前へ進む。黄が点滅したら、もう一度タイミングをはかる。ぼくの仕事はその合図を送るだけだけれど、人々はそれぞれの意思で行動を決める。それこそが、この交差点に満ちるいくつもの物語なのだろう。
あの青年が見せた、夜の孤独と朝の一歩は、ぼくにとって忘れられない光景になった。ぼくはずっと無言だったが、そうと知らずに彼を励ましたかったし、彼が前へ踏み出せたことが嬉しかった。人は誰しも夜を抱えて生きている。しかし、夜のあとには必ず朝が来る。ぼくがこうして変わらず赤・青をくり返しているように、きっと世界も前へ進んでいく。その当たり前の流れが、彼を少しでも救うきっかけになったのなら、ぼくの存在にも意味がある。
そんなことを思いながら、ぼくは再び夜の闇を照らし始める。青い光が交差点を渡る風を切り取り、そこを通り抜ける人々がまた、新しいドラマを運んでいくのだ。
街角の小さな世界を見つめる“ぼく”