ドラマ 短編作品 青春

【街角の小さな世界を見つめる“ぼく”】雨の日に咲く傘たち

青年に支えられるようにして歩き始めた少年は、最初こそぎこちない足取りだったものの、雨に濡れていた身体が少しずつ温まってくるにつれ、自然に歩幅が合うようになっていった。青信号の間に二人は横断歩道の半ばまで進み、そこで一度、わずかに立ち止まる。周囲には色とりどりの傘が行き交い、水たまりを跳ね飛ばす車の音が響く。それでも青年と少年の頭上には、しっかりと紺色の傘が差し掛けられていた。これだけで、少年にとってはずいぶん心強かったのかもしれない。

そのまま横断歩道を渡り切ったところで、青年はあらためて少年の顔をのぞき込んだ。少年は目を伏せがちだが、先ほどよりは表情が和らいでいる。照れや遠慮の気持ちが混ざり合いながらも、新しく手にした折りたたみ傘を大事そうに握りしめていた。

「どこまで行くの?」

青年は優しい声音で問いかける。傘がないためにずっとここで立ち往生していたのだとしたら、少年の目的地はまだ先なのだろう。ふと少年は唇をかみしめ、少しだけ目を伏せたまま答えを濁した。

「あの……友達の家に行けば、傘を借りれるとは思ってたんです。でも……」

言葉は途中で途切れる。どうやら彼の中には、親の言いつけや周囲の目を気にする気持ちがあるようだ。友達に手を差し伸べてもらうのは「迷惑になる」と勝手に思い込んでいるのだろう。青年はその気持ちを察し、なるべく押しつけがましくならないように、ゆっくりと首を振った。

「困っているときは、お互い様だよ。君がその友達を手伝いたいと思うのと同じように、きっと友達も君を助けたいと思ってるはずだよ」

そのひと言が、雨音に溶けるように少年の耳に届いた。少年はハッとした顔をしたまま、しばらくそこに立ち尽くす。自分が抱えていた遠慮やためらいが、ほんの少し揺さぶられたのかもしれない。

ぼくは信号機としての視界の端で、その微妙な心の動きを感じているような気がした。少年の背がわずかに伸び上がり、青年の視線を受け止めたとき、まるで体温が戻ってくるように、その頬が赤みを帯びたようにも見える。そして、ちょうど再び赤信号が灯ったので、青年は少年と一緒に歩道脇にある屋根のあるスペースへと移動していった。しばし雨宿りをする二人の姿は、傘の海の中に落ち着ける小さな島のようでもあった。

赤信号から青信号へ切り替わる間、青年は少年といろいろ言葉を交わす。詳しい事情を根掘り葉掘り尋ねることはしないが、「君が大切にしているものをしっかり守ってあげてね」とやんわり背中を押すような言葉が、時折、少年の心をほどいていく。少年はまだ戸惑いを隠せないながらも、青年の落ち着いた声色に救われるかのように、頷いたり、小さく笑みを作ったりしていた。

やがて打ち付けていた雨音が、少しずつ弱まってきた。空を見上げると、雲の向こうでうっすらと明るさが広がりはじめている。これまで冷たかった風も、ほんのわずかに和らいだ気配を感じさせる。ぼくは信号を赤から青に変えながら、「そろそろ行けるよ」と再び合図を送った。すると、青年は少年に「僕はこの先の大学に用事があるんだ」と言って、先に進む道を指差す。少年の行き先とは違う方向らしい。束の間の雨宿りをともにした二人の道が、いま分かれようとしている。

「じゃあ、傘はちゃんと使ってね。大切にするんだよ。あと、遠慮しすぎず、困ったときは誰かに頼っていいんだ。君が誰かを助ける番も、きっとこれから来るから」

青年はそれだけ言うと、最後に少年の頭を軽く撫でた。少年は一瞬驚いたように目を見開き、それから「はい……ありがとう」と小さな声で答える。まだ頬は濡れているし、完全に安心しきった様子ではないけれど、その表情にはどこか和やかさが戻りつつあった。

青年と別れたあと、少年は白い包装を解き、新しい折りたたみ傘を取り出した。ブルーのチェック柄があしらわれており、少年の背丈にはちょうどよいサイズだ。それをひっそりと広げてみると、壊れたままのビニール傘とは違う、しっかりした感触が手に伝わる。少年はまるで宝物を手にしたかのように、息を整えてからゆっくりと歩き出した。行く先は、きっと彼が躊躇していた友達の家だろう。最初は「迷惑だ」と思っていたけれど、青年の言葉が少年の心を動かしたのだ。誰かに頼ることは、決して悪いことではない。そう、ぼくも心の中でそう伝えたい。

ちょうどそのとき、ぼくは青から黄へ切り替わり、そして赤へと移行していく。交差点を渡ろうとする歩行者たちが一旦足を止める。その中には、まだ雨を警戒してか、勢いよく傘を開いたままの大人たちの姿もある。通りを急ぐ人、立ち止まる人、それぞれの事情が交差点には詰まっている。傘が咲き乱れる雨の日というのは、ただでさえ視界が狭くなる。そんなとき、道に迷った人や困っている人に気づきにくいことだってあるだろう。でも、それでもたった一人でも青年のように目に留め、声をかけようとする人がいれば、誰かが救われるのだ。

ほどなくして、雲の切れ目からうっすらと光が差し込みはじめた。大粒の雨は徐々にその勢いを緩め、路面に広がっていた水たまりから、白い気泡がぱちぱちと消えていく。ぼくの目の前の横断歩道を通りかかる人たちも、振り向きざまに「もう止むのかな」と囁き合う声が聞こえてきそうなくらいだ。少年もその変化に気づいたのか、歩を進めながら空を見上げた。そして、神妙な面持ちが、ほんの少しだけ柔らかな表情へと変わるのがわかる。

彼の上に広がる新しい折りたたみ傘が、まるで小さな屋根のように雨粒を受け止めている。ずぶ濡れだった身体はまだ冷たいだろうけれど、心の中には小さな温もりが灯ったのではないだろうか。青年や友達――自分を助けてくれる人は思いのほか近くにいるかもしれない。その気持ちが、明日の天気だけでなく、彼の心模様まで少し晴れにしてくれたらいい、とぼくは願っている。

信号を見上げる人は誰もいない――そう思っていたそのとき、歩道の向こう側を歩く少年が、ふとぼくのほうへちらりと視線を向けた。表情はまだ硬さがあるように見えたけれど、その頬は先ほどよりもほんの少しだけ緩み、傘の隙間からこちらをうかがうようにしている。まるで「ぼく」にお礼を伝えるかのように、少年は一瞬、軽く頭を下げるように見えた。もちろん、気のせいなのかもしれない。雨のしずくが視線を歪ませたのかもしれない。けれど、ぼくはその一瞬の仕草を見逃さなかった。機械が感じる感傷なんて幻かもしれないけれど、やっぱり嬉しいと思ってしまう。

少年はリュックを少し持ち上げ、傘をしっかりと握りしめたまま、再び歩き出す。雲の合間から覗く薄い光が、彼の背中をほんのりと染めている。友達の家はきっともうすぐそこだろう。ドアを開ければ「どうしたの、そんなに濡れて」という声がするかもしれないし、「傘を貸してあげるよ」という温かい申し出があるかもしれない。まだ実際に家へ上がるのか、ドア越しに関わるだけで済ませるのか、そんなところにも少年の遠慮や戸惑いがあるのだろう。でも、少なくとも先に進む勇気を得たのは確かだ。青年がくれた傘と励ましの言葉、それからぼくが青から赤へと繰り返した合図が、彼の背中を支えたのなら嬉しい。

気がつけば、雨脚はほとんど止みかけていた。空にはまだ灰色の雲が広がっているものの、その奥に少しだけ青空がのぞいている。道ゆく人々の傘が次々閉じられ、水しぶきの音が次第に穏やかになっていく。街角のビルや歩道の木にも、しっとりとした雫がまとわりついているが、それもやがて日差しによって乾いていくことだろう。雨上がりの匂いが交差点全体に広がるとともに、にわかに人々の歩調はゆったりとしたものに変わった。

通り過ぎるその人影の中に、先ほどの少年の姿はもう見当たらない。おそらく友達の家に向かい、すでに玄関のチャイムを鳴らしている頃合いかもしれない。それでも、ぼくは確かに見たのだ。彼が幸せそうとは言わないまでも、ほんの少し、明日への希望を取り戻したような顔つきをしていたことを。雨の中で立ちすくんでいたあの表情とは全然違う。

ぼくは再び、赤から青、青から赤へと淡々と切り替わる。それがぼくの務めであり、存在理由でもある。交差点の人の波がゆっくりと動き出し、車が走り抜け、ようやく日常の光景が戻ってきた。けれど、雨上がりの空気には少しだけ優しさが宿っているようにも感じられる。かつて青年が立ち尽くしていた夜も、そして今日の少年が迷いながら立ち止まっていた雨の午後も、同じようにぼくは変わらず三色の灯を送り続けていただけ。けれど、それでも彼らの人生に小さなきっかけを与えられていたらいい。信号機として、それ以上を望むことはできないけれど、胸の奥でささやかな喜びを感じている。

これからもきっと、いろいろな天気のいろいろな時間帯に、人々は横断歩道を渡っていく。晴れの日には陽射しの中を笑顔で駆け抜け、風の強い日には飛ばされそうな傘を必死に押さえながら立ち止まる。それぞれの事情や想いを抱えて、ぼくのもとを通り過ぎるだろう。ぼくはそんな一瞬一瞬の物語を見守りながら、今日も明日も変わらず光を切り替えるだけ――そのささやかな営みが、誰かの心に小さな温もりを運べたら、と願いながら。

そして雨上がりの空には、うっすらと虹の予感があった。水滴が光を反射し、どこか遠くで七色に輝き出そうとしている。街角に立つぼくの位置からは、その全貌を捉えきれないかもしれないけれど、少年がもし空を見上げたのなら、その虹を見つけて少し微笑んでくれるかもしれない。まるで「大丈夫だよ、きっと」というメッセージのように。

そう思いながら、ぼくはまたひとつ赤を灯し、そして青へと変化させる。雨の日の交差点には、折りたたみ傘が咲く光景が鮮やかに残っている。いつか、少年がまたここを通ることがあれば、そのときぼくは変わりなく、この場所で三色の灯火を続けているだろう。空が晴れようと雨が降ろうと、車や人々が寄り添うように街を往来し、そこにあるささやかな温もりを見失わないようにと、ぼくは今日も信号を切り替え続ける。

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