ドラマ 短編作品 青春

【街角の小さな世界を見つめる“ぼく”】雨の日に咲く傘たち

1.夜に立ち尽くす青年
2.雨の日に咲く傘たち
3.夜のレクイエムと踊る影
4.昼下がりの交差点に訪れる迷い
5.暮れのシグナルに映る希望

ぼくは、街角に立つ一本の信号機だ。名前もなければ、声を持つこともできない。そのかわり、ぼくは光を灯(とも)し続けることで、この交差点を行き交う人々に「いつ進み、いつ止まるか」を伝えている。
 赤、青、黄――この三色の単純な変化だけれど、誰かにとってはこれが大切な合図になることを、ぼくは知っている。なぜなら、ここに立っていると、さまざまな人間模様が見えてくるからだ。悲しみに暮れて立ち止まる人もいれば、喜びにあふれて思わず走り出す人もいる。ぼく自身はただ、淡々と光を切り替えるだけ。けれど、その光が人々の決断や迷いをほんの少し後押ししていると実感できることがある。

今日は朝からずっと雨模様だ。ぽつぽつと降り出した雨が、午後になる頃にはしとしとと音を立て、道ゆく人々の頭上を一面の傘で埋め尽くしている。こんな雨の日は、薄暗い空の下でみんな足早になる。傘がない人は裾を濡らしてしまわないように、鞄を頭にかざして駆け去る。あるいは、近くのコンビニで透明なビニール傘を買い求めるかもしれない。ぼくの視界に映る交差点は、色とりどりの傘たちが咲き乱れる、まるで小さな花畑のようだ。赤信号で人の動きが止まるたびに、その花畑は一瞬だけ静止し、また青になると同時に一斉に動き出す。道端の水たまりに反射する無数の光が、刻々と変わる信号の色と相まって、どこか幻想的な雰囲気を生み出している。

そんな中、ぼくはふと気づいた。一人の少年が、ずぶ濡れのまま交差点の片隅に立ち尽くしている。ほとんどの人は急ぎ脚で通り過ぎていくから、こんなにも長い時間、同じ場所に立っている姿は目立つ。少年はまだ小学生くらいに見える。着ている服もリュックも雨にしっかりと濡れてしまっているから、きっとさっきまで傘がなかったか、あるいは壊れてしまったのだろう。実際、少年の手には壊れたビニール傘の骨組みだけが握られている。ビニールの部分が途中で破れて、傘としての役目を果たさなくなってしまったようだ。

少年の表情は曇り空と同じように冴えない。雨に打たれて冷えたのか、小刻みに震えているように見える。そんな彼も、本当はどこかへ向かいたいのだろう。けれど、その足取りは重いままだ。ぼくの目の前にある横断歩道を渡っていけば、建物の軒先や誰かの家に行き着けるはず。そうすれば、雨宿りもできるし、温かいお茶にありつけるのかもしれない。けれど、少年は一向に動こうとしないのだ。

ぼくは信号を赤から青へ切り替える。すると、傘を差した大勢の人が、まるで花が風にあおられるようにいっせいに横断歩道へ雪崩れ込む。少年のそばを、さまざまな足音がどんどんと通り過ぎていく。スーツ姿のビジネスマン、大学生風の若者、買い物袋をぎゅっと抱えた主婦らしき人。そして、子どもに手を引かれたお年寄り。みんな目的地があって、雨を避けるために急ぎたいのだ。誰もが外気にさらされる時間を少しでも減らそうと、ぎこちなく傘を傾けながら足早に通り抜けていく。

そんな中で、少年だけが動かないのはどうしてだろう。傘が壊れたから? それとも、行く先がないから? 少年のうしろ姿を見つめていると、ふと彼がリュックを抱きかかえるのが目に入った。雨から守るように、大切なものが入っているのかもしれない。でも、どこかぎこちない。まるで、リュックの中だけは濡らしたくない、そんな必死さを感じる。

ぼくは赤から青、青から再び赤へと、一定のテンポで切り替わる光の合間に、彼をじっと見つめ続ける。もちろん、話しかけることはできない。ただ、ぼくのできることは、青のときには「今なら渡れるよ」と促し、赤のときには「少し待っていいんだよ」と伝えることだけだ。機械の身だからこそ、余計に無力さを感じる。雨は容赦なく降り続き、少年から熱を奪い走っていく。そろそろ誰かが気づいて声をかけてくれないだろうかと、ぼくは心のどこかで願っている。

ほどなくして、少年はぽつり、ぽつりと独り言をつぶやきはじめた。聞こえるはずのない言葉だけれど、ぼくの位置からだと、なんとなくその寂しげな雰囲気が伝わってくる。彼は壊れた傘を見下ろしながら「もう行くところないし、友達の家に行っても、きっと迷惑だよな……」と呟いているように見える。どうやら、彼には友達がいて、その家に行けば新しい傘を貸してもらえるかもしれない。だが、何か家庭の事情があるらしい。親に「そんなに友達に甘えてばかりでどうするの」と叱られた経験でもあるのか、それか他の大人から「他人に迷惑をかけるな」と言われてきたのか。とにかく、少年は遠慮の念に押しつぶされて、自分の求める助けを素直に頼めないでいる。

どれほど時が経っただろう。飽きるほど何度も赤や青が切り替わり、通りにはいつの間にか大きな水たまりができている。歩道に落ちる雨は、ますます強い音を立てているように感じる。少年は立ち尽くしたまま、壊れた傘を持つ手のうえに力なく額をうずめている。ぼくは全身で「進んでもいいんだよ」と呼びかけたかった。でも、信号機としてできることは限られている。また青に変わる合図を送るだけ。それでも、もし少年がこちらに目をやってくれれば、ぼくの青が励ましの光に見えないだろうか。迷っているなら、一歩を踏み出してほしい。ずっと雨に打たれているままじゃ、心も身体も冷え切ってしまう。

すると、あるタイミングで、急ぎ足の人たちの隙間から、一人の大学生くらいの青年が少年のそばを通りかかった。背中に大きなリュックを背負い、傘はきれいな紺色で、持ち手が少し派手なオレンジ色をしている。少年に近づいたその青年は、最初は気づかずに通り過ぎかけたが、ほんの一瞬、少年のずぶ濡れの姿に心を留めたらしい。足を止めて、視線を下に向ける。そこで初めて、壊れた傘を抱える少年と目が合った。

青年は何かを言おうとして、傘の中から顔を少しだけ出す。少年は気まずそうに視線をそらしたまま、「大丈夫です」というように首を振った。きっと「迷惑はかけたくない」という気持ちが強いのだろう。だが、青年は少年の姿を見て見ぬふりができなかったらしく、すぐに鞄を開けて何かを探し始めた。そうして、取り出したのは新品の折りたたみ傘だった。使う予定があって買ったのだろうか、それとも予備として持ち歩いているのか。とにかく包装からまだ出したばかりのように見える、真っ白のビニール袋に入った小振りの折りたたみ傘を取り出すと、青年はそれを少年に差し出した。

「これ、使う?」

青年の口はそう動いている。雨の音が大きくて、ささやき声はかき消されがちだけど、優しさだけはしっかり伝わる。少年は一度首を横に振る。しかし、身体は明らかに寒さと不安で震えている。青年は「遠慮しなくていいよ」と、少し笑みを浮かべながら言葉を重ねる。

少年はわずかに俯いたまま、「ありがとう……」と小さくつぶやいた。今にも消えてしまいそうなくらい弱々しい声。でも、確かにお礼を言ったのだ。青年は安心したのか、少年の頭上に自分の紺色の傘を少し寄せて、一緒に雨をしのぐ。ちょうどそのとき、ぼくは青信号へと切り替わった。まるで人間が息をのむように、瞬間的に雨音だけが際立つ。そこに交差点を渡ろうとする人たちのざわめきが重なり合い、世界が少しずつ動き出す。その流れの中で、青年は「行こうか」と少年に声をかけると、同じタイミングで横断歩道に足を踏み出した。

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