ドラマ 短編作品 青春

【街角の小さな世界を見つめる“ぼく”】夜のレクイエムと踊る影

1.夜に立ち尽くす青年
2.雨の日に咲く傘たち
3.夜のレクイエムと踊る影
4.昼下がりの交差点に訪れる迷い
5.暮れのシグナルに映る希望

ぼくは、街角に立つ一本の信号機だ。名前もなければ、声を持つこともできない。そのかわり、ぼくの役目はただ一つ、赤・青・黄の三色を規則正しく切り替えること。ここを行き交う人々が迷わずに、この交差点を渡れるように合図を送る。それは単調な動作の繰り返しだけれど、実際にはさまざまな人の人生が交差する瞬間を、ぼくはこの場所で見つめてきた。

昼間はひっきりなしに車や人が流れていくけれど、深夜になると街は静まりかえり、今までの喧騒が嘘のように消えてしまう。ビルの灯りはまばらにしか残らず、通りを歩くのは飲み会帰りの人々、夜勤を終えたタクシー、あるいは夜風に当たりながら考えごとをしたい誰か――。そんな時間帯に、ぼくはビルの谷間で淡々と三色の変化を繰り返す。深夜の冷たい空気が肌を刺すような時も、それがぼくにとっては日常の光景だ。ぼくにとっては寒さも暑さも感じないけれど、人々の表情や仕草から、夜という時間帯が与える孤独や静けさが伝わってくることがある。

ある夜、ぼくの視界にゆっくりと近づいてくる人影があった。街灯に照らされるその人物は背が伸びきっており、かすかに杖を突いている。老人だ。夜のとばりに溶け込むような落ち着いた服装に、丁寧に磨かれた靴を履いているのがわかる。ゆっくりと歩を進める姿からは、何か確かな意志が感じられた。家へ帰るためなのか、それとも別の場所へ向かうためなのか。ぼくはいつもと同じように赤から青へ、そして黄へと切り替えながら、老人が横断歩道にたどり着くのを待ち受ける。

深夜の交差点。車はほとんど通らず、人通りも少ない。ぼくが青になったところで、老人はゆっくりと横断歩道を渡り始める。杖の先がアスファルトを軽く突く音が、しんとした夜の空気に小さく響く。その動作は慎重ながら、どこかしら懐かしい場所へ戻ろうとしているかのような落ち着きがある。

足取りこそ遅いが、老人は確実に歩を前へ進め、ついには渡り切った。ぼくが再び赤へ切り替わろうとする刹那、彼はふと動きを止めた。まるでこの交差点の真横にあるビルを見上げながら、遠い昔を思い出すかのように立ち尽くしている。視線の先にあるのは、真っ暗になったビルの一角。そこには、先日閉店した小さな音楽ホールの看板がぽつりと残されていた。

この音楽ホールは、駅から少し離れた場所にひっそりと建っていたせいか、大きなコンサートホールとは違って客席も決して多くはなかった。それでも、地元の音楽愛好家たちや学生の発表会などに利用され、小規模ながら豊かな響きを奏でていたと、通りすがりの会話からぼくは知っている。ぼく自身は音を聞く耳を持たない。もちろん耳という器官があるわけでもなく、ただ夜の空気の震えとして、人々の声や音楽の振動を微かに感じるだけだ。けれど、そのホールから溢れていた熱気や、演奏を終えた人たちの満足げな笑顔は、何度も見てきた。そこには確かに、夢を抱えて奏でる人々の姿があったのだ。

今はもう、入り口の扉にも閉鎖を示す貼り紙があるだけ。看板の文字は消され、照明も落とされて、わずかに残るビルの街灯がぼんやりと照らしている。そこを見上げる老人の目は、どこか哀愁を帯びているように見える。やがて老人は、赤信号のまま止まったぼくの下に残りながら、一歩も動かず、じっと建物に視線を送っていた。その時間は、昼間の交差点では考えられないほど長く感じられた。人の流れがほとんどない深夜だからこそ許される、そんな静かなひととき――。

ぼくは相変わらず、一定の間隔で赤から青へ、そして黄に切り替わる。夜だからといって、その役目を怠ることはできない。たとえ車があまり通らなくとも、ここでのルールを守ることで通行人が守られることもある。けれど、実際にはその老人以外にぼくを気にかける人はいないかもしれない。タクシーがたまに通る程度で、横断歩道を急ぎ足で渡る人も見当たらない。ビルに挟まれた路地から冷たい風が吹き抜け、ネオンサインの光が遠くの通りをかすかに照らしているだけだ。錆びた看板が、かすかな音を立てて揺れている。

老人は、まるでそこにかつて存在していた音楽を思い出すように目を細めていた。そういえば、以前、閉店前のホールから漏れ聞こえる優雅な弦の調べを、ぼくはかすかに感じ取ったことがある。あの日も夜更けで、店内の講師らしき人がリハーサルをしていたのか、それとも最後の片付けをしながら誰かが楽器を弾いていたのか……ともかく、バイオリンとピアノが重なり合う、穏やかでありながら少し切ないメロディが夜気に溶けていた。ぼくにとって音は、直接耳で聞くものではなく、遠くに広がる波や人々の表情の変化で感じ取るものだから、いまだにうまく説明できない。ただ、不思議なことに、その旋律の記憶だけはしっかりと残っている。

やがて老人は、ゆっくりとした動作で首を振り、そこから目をそらす。だが、足は動かそうとしない。まるで記憶の残像に心が縛られているような、懐かしさと後悔が入り混じった雰囲気が伝わってくる。遠い昔、この場所で何かを失ったか、あるいは置き去りにしてしまったものがあるのかもしれない。時間は残酷だ。何十年も音楽を愛し続けてきても、いつかはホールも閉鎖となり、聴衆も減り、奏者自身も年を重ねてしまう。それでも、その情熱や思い出は心に焼きついたまま消えることはない。老人の姿を見つめながら、ぼくはそんなことを考えていた。

やがて、老人は小さくため息をつくかのようにかがんで、ポケットの中から何かを取り出した。それは古びた鍵のようにも見える。彼はそれを握りしめたまま、再びビルの上階をじっと見つめ、「あの頃は」とか「もう一度」というような言葉を小さく呟いている気配がある。もちろん、ぼくにははっきりとは聞き取れない。けれど、落ち着いた夜の空気のせいか、あるいは老人の強い想いのせいか、その声の振動がぼくの柱にかすかに伝わってくるような気がする。  夜の静寂は、時に人の心の奥底をさらけ出させる。誰もが眠りにつき、街の明かりも半分消えてしまった世界だからこそ、自分の人生と向き合う時間が訪れるのだろう。老人はその瞬間を待っていたかのように、この交差点にやってきたのかもしれない。

そのままの姿勢で、老人は数分、あるいは十数分も経ったかもしれない。見ているほうが心配になるくらい長い沈黙ののち、ようやく彼は杖を突いて静かに踵を返した。そして、まだ赤信号のままのぼくのそばを通り過ぎようとする。だが、どこか決心がついたようにも見える。その表情には、寂しさだけでなく、わずかな情熱の火が再び芽生えているように思われた。

それから数日後の夜、再びぼくは老人の姿を見かけた。いや、いつもの落ち着いた佇まいとは少し違う。手にしている杖は相変わらずだが、もう片方の腕には長いケースがぶら下がっている。あれはバイオリンケースというやつではないだろうか。閉店前の音楽ホールで年配の演奏者が奏でていた姿を、以前どこかで見かけた気がする。もしかすると、この老人は昔そこでバイオリンを演奏していた人かもしれない。だとしたら、彼は今、何をしに来たのか――。

老人は再び、ゆっくりと横断歩道を渡る。ぼくが青に切り替わったタイミングで、慎重な足取りを始めた。タクシーのライトが遠くから近づき、やがて赤信号へと切り替わりそうになる一瞬、彼は若干早足になったようにも感じる。いや、気のせいかもしれないが、少なくとも前回よりは明確な意志を伴った動きに見えた。足元のリズムが違うのだ。まるで、胸の奥で眠っていた旋律を呼び覚ますかのように、彼の動作には微かな躍動感が宿っている。

渡り切った先で、老人はまた立ち止まる。すると、今度はケースをそっと地面に下ろし、片膝を少し曲げるようにゆっくりと腰を落とした。深夜の冷えた歩道でそんな動作をするのは、身体にこたえるかもしれない。それでも、ここに来たのには理由があるのだろう。ケースを開き、中から木目の美しいバイオリンのボディが見え隠れする。決して新しくはなさそうだが、手入れが行き届いていることが伺える。老人はその楽器を両手でそっと持ち上げると、昔取った杵柄を思い出すように、胸のあたりでしっくりと構えた。

ぼくは信号機として、赤から青へ、青から黄へと変化を続けている。時折タクシーが通り過ぎ、遠くには夜遊びを終えた若者たちが笑い声を上げながらふらついていく。そんな微かな音の合間、老人はバイオリンの弓をかすかに震わせた。最初はかすれたような小さな音。しかし、しばらくすると彼の中で眠っていた感覚が呼び起こされるのか、深夜の空気を切り裂くように、澄んだ弦の響きが夜道に広がりはじめた。

深夜の交差点に一瞬、音楽の花が咲く。その旋律はゆったりとしているが、切なさと懐かしさを同時にはらんだような不思議な響きを持っていた。もしかすると、これは老人がかつて音楽ホールで演奏していた曲のひとつなのかもしれない。観客もいない、客席もない、暗闇に包まれた通り。パトロール中のタクシー運転手が気づいて遠目に見るくらいで、拍手すらない。けれど、ぼくはその音色をはっきりと感じ取っていた。夜の冷気を震わせ、通りのビルの壁に跳ね返るように広がる小さな音の波――それは、ぼくが今まで感じたことのない深い響きを持っていた。かつて彼がホールで奏でていた音楽を、もう一度ここで取り戻すかのように。

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