続き
青年の後ろ姿が消えてしまうと、交差点にはふたたび夕暮れの穏やかなざわめきが戻ってきた。ぼくはいつもと同じように光を切り替えながら、さきほどの出来事を反芻(はんすう)している。長いあいだ、ここで三色を守り続けてきたけれど、やっぱり人間というのは面白い。立ち止まってしまうこともあれば、思いがけず誰かを助けることもある。同じ交差点に立っているというだけで、ぼくはその無数のストーリーを目の当たりにしてきた。
雨の日に傘を失くしていた少年。夜のレクイエムを奏でた老人。昼下がりの配置換えを迷っていた女性。そしていま目の前を通り過ぎた少女――そこに通底するのは、ちょっとした勇気や、人の優しさだ。何気ない日常の一瞬が、その人の心にほんの少し温かい灯をともしている。ぼくが青信号から赤信号へ、また赤信号から青信号へと変化を繰り返すうちに、彼らの人生は先へ先へと流れていく。だが、その瞬間にここで交差した出来事が、きっとどこかにつながっているのだと思う。
女の子の姿は遠ざかり、夕暮れのオレンジの光の中で小さくなっていく。家までの道のりはまだあるだろうし、学校での悩みはそう簡単に解決しないかもしれない。けれど、たとえ大きな変化がなかったとしても、“もう一歩”を踏み出した感触は、きっと少しずつ彼女を強くしていくのだろう。あの青年が、かつて夜に苦悩した経験を自分の糧に変えたように。そして、その力はいつか誰かの支えとなるのかもしれない。今日、彼が少女をほんの少しだけ助けたみたいに。
ぼくはただ、そんな人々の一瞬の決断や、立ち止まり、ためらう姿を見守ることしかできない。でも、その“しかできない”役目にこそ、大切な意味が隠されていると感じるのだ。ぼくが赤を灯せば誰かは立ち止まり、ぼくが青を灯せば誰かは進みにくい足を踏み出す。厳密には交通ルール上の操作にすぎないけれど、その行為が彼らの人生のきっかけに重なることだってある。「信号が青になったから歩きだす」――それは単なるルールの遵守ではなく、ときに迷いや悩みと向き合いながらも前に進む勇気に変わりうるのだと、ぼくは何度も思い知らされてきた。
日が沈みかけた空は、徐々に深い蒼(あお)を帯び始め、オレンジ色との境目がくっきりとわかれはじめる。まもなく夜のとばりが下りれば、交差点の表情もまた別のものになるだろう。通りには仕事を終えた人たちがあふれ出し、ネオンや車のライトが交差して、慌ただしい流れが戻ってくる。けれど、今日という一日は確かにもうすぐ終わりを迎える。茜色から夜の藍色に変わる、この儚い瞬間が、ぼくはたまらなく好きだ。無数のドラマがいったん幕を下ろし、また新しい明日へ向かうための小休止が、空気全体に漂っているような気がする。
思えば、あの青年がここに立ち尽くしていた夜も、深夜に老人がバイオリンを奏でたときも、雨の日に少年が躊躇していた瞬間も、そして会社員の女性が大きく息をついて配置換えを受け入れるメールを送ったあの日も、ぼくはずっと同じ姿勢で三色を切り替えるだけだった。けれど、その“不変”であることが、変わり続ける人間の心や人生を逆に照らし出してくれるらしい。大きく言えば、ちっぽけな信号機の存在が、誰かの夜明けや迷いを一歩動かすこともあるのだ。
少女と青年が並んで横断歩道を渡る姿を見送ったあと、ぼくの中にささやかな誇りのような感情が広がった。ぼくは信号機で、言葉がなく、意志を伝える方法も光の色しか持たない。でも、この場所で赤・青・黄を守り続けるだけでも、通り過ぎる人に小さな希望を示せることがある。いつか、車の渋滞をイライラと待ちわびる人にも、複雑な気持ちでどこかへ急ぐ誰かにも、心の奥で「信号が青になった」という些細な出来事が、もっと大きな踏み出しの合図になるかもしれない。
そう考えると、いま見えている交差点の風景がさらにかけがえのないものに思えてくる。行き交う人々の一人ひとりに、それぞれの悩みや喜びがあり、それぞれのタイミングで横断歩道を渡っていく。そこに写し出される迷いや決断の一瞬は、真実かどうかぼくにはわからない。だけど、ここから眺めていると、人間の“生きている”という証が鮮やかに浮かび上がる。ぼくはそれを、変わらず赤から青、青から黄へと移り変わる光の中で見届けるのだ。
今日の夕暮れは、いつもよりも少しだけ暖かく感じられる。季節の変わり目だからだろうか。それとも、少女と青年の会話が残していった空気が、まだこのあたりに漂っているのかもしれない。交差点の向こうには、また違う物語がきっと息づいているだろう。けれど、どんな物語が交差点を横切ろうとも、ぼくはこれまでと同じように三色を提示するだけ。生きるのは人々自身であって、ぼくはその通過点にすぎない。だが、それで十分だと思っている。
やがて、空の茜色が深みを増し、街のビルや家々にも灯りがともり始める。これから夜へと移り変わり、また新しいドラマが生まれるかもしれない。あの青年が、いつか再びこの場所を訪れることがあるのだろうか。そのときはどんな眼差しをしているのだろう? 少女はクラスの友達と笑い合えているかな? 雨の日に立ち尽くしていた少年はもう中学生になっているのかもしれないし、深夜にバイオリンを弾いた老人も、そろそろ別の誰かに音楽を受け継いでいるのかもしれない。昼下がりの女性は新しい部署に慣れてきたろうか――そんなふうに考えていると、通りを吹き抜ける風がいっそう優しく頬をなでていく。
ぼくは赤から青、青から黄へ。いつもと変わらないテンポで光を繰り返す。その狭間に、人は立ち止まり、そして歩き出す。ささいな戸惑いも、むせかえるような未来への不安も、ここに佇(たたず)む一瞬のうちに、ほんの少しだけ勇気に形を変えることがある――ぼくはそれを信じているし、それがぼくの存在理由なのだと思う。声を持たずとも、赤と青のはざまで多くの人生が交錯する場所。それが交差点であり、そこに立つ信号機のぼくなのだ。
そうして茜色がまた一段と色濃くなり、地平線の向こうへと夕陽が沈んでいく。遠くに見えるビルの輪郭が黒いシルエットとなり、町全体がゆるやかに夜のチェックインを始める時間帯。少し冷たい気配を帯びた風が、ぼくの柱をすり抜けていくのを感じる。人を呼び止めたり、背を押したりするのは、本当はやっぱり他の人間自身かもしれない。けれど、こうして信号を繰り返すぼくも、その一端を担っていると思えるだけで、じゅうぶん幸福だ。
もうすぐ、あたりは薄闇に溶け込んでいくだろう。ネオンや看板が通りを照らす夜の景色が広がる頃、ぼくのライトもいっそう際立って見えるはずだ。赤い光が迷いを優しく止め、青い光が決断のトリガーになるかもしれない。そして黄色は、一瞬だけ次の色を考えさせる猶予のシンボルだ。どれも交通ルール上の役割を担っているが、人によってはそれ以上の意味を宿すことがある。
――こうして、街角の信号機が見つめる、ささやかな奇跡(こえ)は、今日も穏やかに幕を下ろしていく。
あの女の子と青年の短いやりとりが刻まれた夕暮れは、そろそろ夜へと塗り替えられるだろう。けれど、交差点には確かに温かな気配が残り、その余韻を吸い込むかのように人々がすれ違い、笑い合い、あるいは急ぎ足で家路につく。ぼくはその光景を見守りながら、変わらぬ姿勢で信号を切り替え続ける。
いつかまた、どこかで迷っている人の背中を、小さくでもいいから押してあげられるように。赤・青・黄の光を絶やさないように。こちらが話しかけなくても、人は勝手に立ち止まり、そしてまた歩き出すときがある。その律動を支えつづけることこそが、ぼくの務めであり、この町の交差点に立つ意味なのだろう。