【街角の小さな世界を見つめる“ぼく”】シリーズ一覧
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ぼくは、街角に立つ一本の信号機だ。名前もなければ声を持つこともできない。その代わり、ぼくが担っているのは赤・青・黄という三色の光を規則正しく切り替え、ここを行き交う人々が安全に渡れるよう合図を送ること。ずっと変わらない立ち位置で、季節の移り変わりや時間帯の変化を見守り続けている。
朝の始業前に慌ただしく駆け抜ける会社員たち、深夜に生まれる静寂と孤独、雨の日に咲く無数の傘。どんな瞬間も、ぼくはここで三色の光を守り、交差点という小さな舞台を照らす。すると不思議と、さまざまな人の物語が浮かび上がってくるのだ。迷ったり、悩んだり、そして一歩を踏み出したりする人々が、ぼくの目の前を通り過ぎていく。
そうして長いあいだ信号を切り替えてきたぼくにも、いつしか“忘れられない顔”というのがいくつかできた。雨の中で濡れそぼった少年も、夜の静寂にバイオリンを奏でた老人も、昼下がりに配置換えのメールを送る決断を下した女性も――その姿は、ぼくの記憶のどこかでいつも輝いている。そして何より、最初に夜の交差点で立ち尽くしていたあの青年。同じ場所でありながら、どこか遠い世界を見失っていたかのような瞳が、ぼくの印象に深く刻まれていた。
今ではあの青年が彼自身の道を歩むようになったのかどうか、ぼくには知る術がない。それでも、立ち尽くしていた夜明けに、彼はぼくの青信号を見上げて、静かに一歩を踏み出していった。あの姿は、ぼくにとってひとつの小さな“奇跡”だった。ぼくが信号機である限り、言葉で励ますことはできない。けれど、赤と青、黄の切り替えは、人々がもう一度自分の足で歩き出すための、ささやかなきっかけになり得るのかもしれない――そう実感した出来事だった。
そして今日、空はあかね色に染まり始め、街は夕暮れの穏やかさをまとっている。通勤や通学が一段落し、夜の帳(とばり)が近づくまでの、ほんの少しの休息の時間帯。オフィス帰りらしき人が駅へと急ぎ、近所のスーパーへ買い物に向かう主婦が足早に通り抜ける。どこかからは夕ごはんのいい匂いが漂いはじめ、日中の暑さもほんの少しやわらいでいる。いつもよりも人々の表情に余裕があり、街角はやわらかなざわめきに包まれている。
ぼくは、相変わらず赤・青・黄を刻み続けているけれど、この時間帯はどこか懐かしく、胸の奥がほんのり温かくなるような気がする。特に夏から秋へ移る頃、夕焼けが深い茜色をまとって交差点を染め上げると、過去のさまざまな光景を思い出すことがある。あの青年が夜から朝へ向けて踏み出した一歩も、バイオリンを奏でた深夜の調べも、雨空の下で傘を差し出された少年の笑顔も、すべて微かなオレンジ色の余韻を帯びて、ぼくの中に刻まれている。
そんな夕暮れの中、ぼくはふと視界の端に小さな影を見つけた。横断歩道の手前で、ランドセルを背負ったまま立ち止まっている女の子。見たところ、小学高学年くらいだろうか。髪は肩の長さで、明るい茶色のランドセルが特徴的。彼女はまるで歩くことを忘れたかのように、じっと自分の靴先を見つめている。人通りこそあるが、決して多くはない時間帯なのに、彼女の姿だけが際立つほどの“止まっている感”を放っていた。
どうやら、彼女はクラス替えをしたばかりらしい。かすかな独り言やため息から、友達とうまくいっていないのが伝わってくる。そっと眉間に皺(しわ)を寄せ、時折ガラス窓に映った自分の顔を見つめては、ぎこちなく笑みの練習をしているみたいだ。きっと学校では明るく振る舞おうとしているのだろう。けれどその疲れが夕方になってどっと押し寄せるのか、家路へ向かう一歩すら重たそうにかかとが沈んでいる。
ぼくは信号機だから、その子に「がんばれ」と言葉をかけることはできない。けれど、これまでに何度も子どもたちを送り出してきた経験がある。ランドセルを背負う背中は大きさも年齢もさまざまだが、迷いや不安は大人と変わらない。むしろ、必死に自分を守ろうとするからこそ、彼女のように意固地になってしまうこともあるのかもしれない。
気がつけば、ちょうど青から赤へ切り替わるところだった。歩行者用の点滅がゆっくりと光っては消え、ついには赤い人型が交差点を支配する。車のほうは進みだしているが、女の子は依然として動かない。そっとまぶたを伏せたまま、小さくため息をつき、まるで誰かに背中を押してほしいのだと言わんばかりの姿勢で俯いている。
そんなときだった。急ぎ足でこちら側を横切ろうとした青年が、女の子にぶつかりそうになる。彼は慌ててタイミングをずらし、かろうじて衝突を避けた。
「ごめん、大丈夫?」
思わずそう声をかけた青年は、どこか見覚えのある顔付きだった。髪型は少し変わったようだけれど、夜の交差点で立ち尽くしていたあの青年に間違いない。いつだってうつむいていた彼が、心なしか今は瞳に活力を宿している。服装こそシンプルなシャツとパンツだが、肩の力が抜けていて、余裕すら感じさせる立ち姿だ。
女の子はびっくりした表情を浮かべ、「すみません」と小声で返す。彼女のほうが悪いわけではないのに、謝罪の言葉が先に出た。青年はすぐに「謝るのはこっちだよ」とやんわり首を振り、女の子のうつむく姿に気づいて問いかける。
「……なんかあったの?」
その質問に、女の子は一瞬困惑したように目を点にする。自分が抱えている悩みをいきなり他人に言えるはずもない。何より相手は大人だ。それでも、青年の声の調子がどこか優しく肩越しに響いたのか、女の子は少しだけ胸を張り直すような仕草を見せた。
「別に……」
そう呟くものの、その声は震えていた。さっきまで自分の顔を鏡で見つめていたときと同じような絶望感が、言葉の端々に宿っている。青年は苦笑いしながら、その姿をそっと覗き込む。
「そっか。でも、僕も昔、ここで渡りたくても渡れないことがあったんだよね」
女の子は衝撃を受けたように青年を見上げる。そんな彼女を前に、青年の瞳は懐かしそうに細まった。そして続ける。
「すごく苦しくて、どうしていいかわからなくて……それでも、信号が青になったら、一歩踏み出せたっていうか。誰かに背中を押されようが押されまいが、結局は自分で歩くしかなかったんだけどさ。でも、その最初の一歩で景色が変わることもあるんだよ」
どこか照れくさそうに言い切ったあと、青年はちょうど腰かけられる段差を見つけて女の子と向き合うように腰をおろした。そこでは、茜色に染まる空を背景にして、二人のシルエットが交差点の一角に溶け込む。ぼくは赤い光を灯したまま、その光景を静かに見下ろしていた。
女の子は、友達とうまくいかない理由を話すでもなく、ただぎこちなく唇を噛んでいる。でも、青年の言葉が無駄にはならなかったようだ。顔を隠すようにうつむいていた表情は、少しだけ柔らかくなっている。脳裏に何かを思い浮かべているのかもしれない。もしかすると、クラスの中で自分がどんな姿でいるのか、どう振る舞えばいいのか、誰とも話せずにいる孤独を思いめぐらせているのか――それは、ぼくにもわからない。けれど、少しだけ「胸の内を笑いながら話せたら楽になるかも」と思っている雰囲気が漂っていた。つかの間、青年と女の子のあいだに優しい静寂が流れる。
そのときだった。ぼくのサイクルが訪れ、再び青の光が点灯する。まるで何かの区切りを示すように、周囲の雰囲気が少し変わった。交差点がまた一瞬だけ活気づき、人々が動き始める。このタイミングを見計らうかのように、青年は「行こうか」と言わんばかりに目線を女の子へ送る。しかし、言葉にはしない。ただ、ゆっくりと立ち上がり、彼女の隣で横断歩道のほうを指し示した。
女の子は最初、戸惑いの表情を見せたが、青年の“ほんの少しだけ待っている”雰囲気に押されたのか、意を決したようにランドセルの肩紐を握りしめる。照れくさそうに眉をひそめながらも、一歩だけ歩み寄って、そしてもう一歩――こうして横断歩道へ足を進めたのだ。音もなく、ぼくの青がその小さな背中を照らしている。
青年は「そうそう、その調子」というように軽く笑い、女の子の隣を歩き出す。周囲の人々は特に気に留める風でもなく、各々の帰宅や買い物の足取りを急いでいる。彼女のように、夕方の家路に向かう子どもだって珍しくはない。けれど、ぼくの視点では、彼女のためらいが“前進”へ変わった瞬間が、はっきりと映っていた。かつて夜に立ち尽くしていた青年が、今度は誰かを支える側になっているのだ。それがとても嬉しい。
車道を渡りきったところで、女の子は小さく息を吐き、まだ迷いが残るように揺れる瞳をしている。けれど、半歩だけ踏み出した感覚が身体に宿ったのか、ほんの少しだけ表情が明るく見える。「大丈夫なのかな……」と自問しているふうでもあり、「なんとかなるかもしれない」と思っているようでもある。そんな戸惑いの混じった揺らぎこそが、次への一歩のもとになるのかもしれない。
そして最後、彼女は青年を振り向き、軽く微笑んで「ありがとう」と小さく言った。声はか細くて、交差点の車音や人々の足音にかき消されそうだったが、青年ははっきりと受け取ったようだった。彼も笑顔で首を振ると、その後ろ姿を静かに見送る。まるで「いってらっしゃい」とでも言うように。
女の子が去っていったあと、青年は腕時計をちらりと見て、今度は自分の行く先へと足を向けた。この交差点を離れると、きっとまた別の街角で彼の新しい生活が続いているのだろう。表情には疲れも焦りもなく、淡々とした自信や、どこか満ち足りた雰囲気すら漂っている。あの夜の面影は、もうほとんど残っていない。彼は今や、“夜明け前に立ち尽くしていた青年”ではないのだ。
ほんの少し暖かい夕暮れの風が、青年のシャツの袖をそっと揺らす。ぼくは、その後ろ姿を見届けながら赤い光に切り替わった。交差点には夕陽に染まる陰影が伸び、いつもより長いシルエットをアスファルトへ落としている。通り過ぎる人々のなかに、彼の姿はもう見当たらない。しかし、記憶の中に焼きついた一歩一歩の足取りを、ぼくは追いかけるようにして思い出していた。夜から朝へ踏み出した青年が、今度は夕暮れに誰かを励ます側になる――それが、なんだか尊くて胸に沁みた。