ドラマ 短編作品 青春

【街角の小さな世界を見つめる“ぼく”】昼下がりの交差点に訪れる迷い

ぼくの視界には、たまに彼女のように迷いながらメールを打っている人の姿が映ることがある。中には友人関係に悩む学生や、職探しに苦戦している若者が「ここで送信するべきか、それとも書き直すべきか」と頭を抱えているケースもあるだろう。ボタンひとつで気持ちを届けられる便利な時代だからこそ、その送信行為そのものが重くのしかかる。送る前に迷い、送った後に後悔し、また新しいメールを書く――。そうした繰り返しの中で、人々はときに自分の想いをうまく伝えられず、ときに意を決して踏み込んでみる。

ただ、一度踏み出すと案外、次の一歩は楽になるものだ。その最初のきっかけが、ぼくの前の横断歩道と重なっているなら、ぼくもほんの小さな喜びを感じる。彼女が送信ボタンを押しながら横断歩道を渡ったあの瞬間、確かに空気が動いた気がしたし、彼女の足取りに不思議な力が宿ったようにも見えた。

通り過ぎるときは一瞬で、そしてもう二度と“同じ瞬間”には戻れない。それがぼくの立つ交差点で起き続ける日常のドラマだ。ぼくは機械だからこそ、その変化を俯瞰(ふかん)するように見つめているだけ。それでも、ときには強烈な感動を覚えずにはいられない。これから向かう先で、彼女は新しい部署の仲間と出会うのか、それとも新しい仕事に追われる日々を待ち受けているのか――どちらにしろ、決断をした彼女なら大丈夫だと、根拠もないのにそう思う自分がいる。ぼくができるのは赤から青、青から赤への繰り返しだけれど、きっとその合図は彼女の中で何らかの形に変わっていくんじゃないだろうか。

そう思っているうちに、いつの間にか時間は午後三時を過ぎようとしている。日の光はまだ強く、気温もそれほど下がりそうにない。とはいえ、この昼下がりののどかさも長くは続かない。夕方になれば、退勤ラッシュが始まり、交差点はまた一変するだろう。人も車も増え、みんなが忙しそうに通りを駆け抜けていく。昼のうちに感じていたこの緩やかな空気も、ほんの束の間の休息にすぎないのだ。

ぼくはまた、赤から青へ、青から黄へと光を切り替えていく。その一連の流れは単純作業のように見えるかもしれないが、人間の目には大きな意味を持つのだろう。止まるべきときにしっかり止まり、進むべきときは迷わず進む――そのリズムを、ぼくという存在は暗黙のうちに示しているのだ。

もし「迷い」が形を持って見えるとしたら、それはぼくの光に重なるかもしれない。赤は「今は行動を控え」というシグナルだし、青は「いざ一歩を踏み出せ」という促し。そして黄色は「もう一度だけ考えてみてもいいかも」という猶予のようにも解釈できる。もちろん、本来の交通ルールとしての意味とは微妙に違うけれど、人々の心に余白を与える色合いとして、ぼくの三色が寄り添っていくことができたなら、これほど嬉しいことはない。

問題は、ぼく自身がその思いを言葉にできないことだ。彼女に直接「大丈夫。進んでみよう」と告げることもできないし、思い切りを称賛する声をかけることもできない。けれど、彼女があの横断歩道を渡るとき、すこしだけ青をまぶしく灯せていたのだとしたら、それはきっと誰にも邪魔されないアシストになり得たのではないか。ぼくはそう信じている。
 たとえ本人が気づいていなくても、「あのとき信号機が青になっていたから、勇気を出せた」というような思い出が、数年後ふと蘇るかもしれない。そう考えると、ぼくの役目は決して物理的に事故を防ぐだけではなく、人の人生の一幕に小さなきっかけを与えることにも通じているのかもしれないと思えてくる。実際、あの青年や少年、そして老人も――それぞれが自分の迷いや夢を胸に、この交差点を通り過ぎていった。彼らは、ぼくの光をどのように受け止めていたのだろう。

人間の営みは浅いようで深い。昼下がりの陽射しに溶け込みそうな小さなドラマが、実はその人の人生を大きく変えるかもしれないのだ。彼女もこのあと、会社に戻って新しい上司や同僚と話をするのかもしれない。あるいは親しい同僚とのランチ再会で、「実は異動を受けることにしたの」と打ち明ける日がやってくるのかもしれない。周囲の反応は予想できないが、大切なのは、彼女が「自分で選んだ」という事実ではないだろうか。

ぼくはまた、赤から青へ。見上げれば、夏の始まりを感じさせる入道雲がちらほらと顔を出し、その白さが強い日差しに照らされている。空の青とぼくの青は、まるで競い合うかのように鮮明だ。頼りないようでいて、確かにそこに存在する色彩。彼女が踏み出した横断歩道は、いまはもう誰も歩いていないが、その余韻だけが陽炎の中にうっすらと漂っているようにも見える。誰かが立ち止まる度に、ここでは小さな物語が生まれ、そして消えていく。

昼下がりの交差点。ぼくは今日も、幾度となく信号を切り替えていく。その背後には大きく変動する社会があり、希望と不安を同時に抱えた人々が絶えず通り過ぎていく。きっと日が暮れれば、またまったく別の表情を見せるはずだ。けれど、今この瞬間、ふと思い出してほしい。「送信ボタンを押したあのとき、わたしは横断歩道を渡り始めていた」――そんな記憶のひとコマが、彼女の力になってくれたら、ぼくはそれだけで少しだけ誇らしい。

次のページへ >

-ドラマ, 短編作品, 青春
-, ,