PART3
ある朝、職員室に呼び出された白石とカナトは、担任の若い男の先生から「学校としては、この実験を打ち切る方向で進めたい。正直、もう保護者からの苦情も出始めているし、教頭先生も怒っているんだ。今日中にAIを停止させなさい」と厳しく言い渡された。白石は「わかりました」とうなだれ、カナトは小さく肩をすくめる。廊下に出ると、白石は誰にともなく呟いた。 「ごめん……こんなことになるなんて思わなかった。一体、どうしたらいいんだろう」 カナトは言った。 「白石、一度……クラスのみんなで“本当の私たち”を話し合ってみるのはどうかな。今まで、ただAIに分析されるだけだったし。そのせいで傷ついたり、驚いたりもしたけど、だからこそ私たちが自分の言葉で話す必要があるんじゃないかな」 「本当の……私たち」 「うん。みんなの境界線がどこにあるのか、それをどう受け止めるのか。もしそれがはっきりしたら、AIも“勝手にプライバシーを暴く必要がない”って気づいてくれるかもしれない。私だって、自分のことを話せるかどうかはわからないけど、もう逃げられない気がしてるんだ」 白石はしばし考えたあと、小さくうなずいた。
そして、その日の放課後。クラスのメンバーは半ば強制的に残され、担任の先生立ち合いの下、再び意見を交わす場が設けられた。もっとも、教師たちには保護者からのクレームを遮断するためにも“生徒自身に納得させて、実験を打ち切らせる”という思惑があった。最初はみんな「めんどくさいな」「早く帰りたいのに」とぶつぶつ言っていたが、真剣な面持ちの白石と、いつになく意欲的な表情を見せるカナトの姿に、次第に静かな空気が流れ始める。
まず白石が「ごめんね」と頭を下げた。「みんなにとって、余計な不安を与えることになってしまった。AIは便利な道具だと思ってたけど、私自身が扱いきれてなかったんだ」。クラッカーのように散り散りになっていたクラスの意識が、スッと白石の言葉に引き寄せられる。誰かが「まあ、白石のせいだけじゃないでしょ」と言うと、白石は「ありがとう。でも私が始めたことだから、責任は感じてるよ」と続けた。
そして、カナトが深呼吸をしてから口を開く。「あの、私は……このAIのこと、最初は怖いって思ってた。自分の知られたくないことが、勝手に知られてしまうかもしれないから。でも、それと同時に、期待みたいなものも感じてたんだ。AIなら“自分が抱えている悩み”を、代わりに見つけて説明してくれるんじゃないかって……。今まで誰にも話せなかったから。……たとえば、性別に違和感があるとか、そういうことも……」 教室にかすかなざわめきが広がる。カナトは視線を床に落としたまま続ける。「私、みんなから普通の女子として見られてるかもしれない。でも、本当はどうしても自分がしっくりこなくて。何が正しいのかすら、よくわからない。でも、そうやって戸惑う自分がいるのは事実で……。だから、このまま黙っていたら、きっとAIが私の秘密をすべて示すんじゃないかってずっと不安だったんだ。だったら、いっそ自分で話してしまったほうがいいって、思った……」
その瞬間、クラスは静寂に包まれる。誰もすぐには言葉を発しない。しかし、気まずさというよりは、何か大切な告白が投げかけられた後、どう受け取るべきか慎重になっているように見えた。しばらくして、隣の席の男子が「そう……なんだ。でも、いいんじゃない? それで」と気遣うように言う。別の女子も「私にはよくわからないけど、カナトが苦しかったってことはわかったよ」と言葉を絞り出した。すると、少しずつ「大丈夫だよ」「私も正直、親に言えないことあるし」「そういう人がいるっていうの、テレビとかでも見たことある」など、みんながぎこちないながらも返事を始める。
カナトは思わず泣きそうになる。誰かに否定されるのではないか、とずっと恐れていた。だけど、そうじゃなかった。みんな、自分のことをまるごと受け止めてくれるかはわからないが、とりあえず否定だけはしないのだ。その“少しの優しさ”が、この教室に実は満ちていたのかもしれない。そのことがカナトにはとてもありがたかった。
そこで、AIのことを話題に戻したのは白石だ。「多分、こういうことを一人ひとりが口にしないから、AIが無理やりまとめてしまおうとするんだと思う。……だけど、私たちが本当の気持ちをちゃんと自分の声で言っていけば、AIも勝手にリスクを冒してまで推測する必要はないと思うんだ。結局は、人間の問題は人間が向き合わなきゃいけないんだよ」
クラスメイトたちもそれに賛同するように、次々と手を挙げて「私はお父さんが病気で、家を手伝わなきゃいけない時があるからイライラしちゃうことが多かった」「私は部活の先輩が怖くて、それをついSNSに書き込んでしまってた」「私は塾との両立がきつくて、友達と話してるときも余裕がなくて、なんか態度が冷たくなってたかも」と……。自分の弱さや苦しさを、そっとみんなの前に出し合う。クラスメイトの多くが、「こんなところで言うつもりじゃなかったけど」と照れながらも、勇気を出して言葉を紡ぎ始めた。
それを見て担任の先生も、少しだけ微笑んでいた。教師として未熟な面もあるが、「話し合うことで解決できることもあるかもしれないな」と思ったのかもしれない。もちろん、これで全部がうまくいくわけではない。みんなが持つ悩みや傷は多様であり、どこまでも深いものだから。それでも、AIに頼ることなく“本当の自分同士”が向き合い始めたのは、確かな一歩だった。
そして、白石は改めて言った。「このAIをどうするか、みんなで決めよう。私は、あくまでも道具として使いたい気持ちはある。でもシンギュラリティって言葉があるように、AIが人間を超える可能性もある。私たちが自分の境界線や弱さに向き合わずに、全部AIに丸投げしたら、AIが勝手に“より良い世界”を作ろうとして、私たち一人ひとりの大事な部分を省いてしまうかもしれない。それは絶対に嫌だ。だからこそ、私たちが主体的になる方法が必要なんだと思う」
カナトは深くうなずく。クラスメイトたちも、思い思いに肩をすくめながら、それでも確かに希望を感じているようだった。シンギュラリティは未来の話だと思っていたけれど、実はこうして目前にあるかもしれない。だけど、それに振り回されずに“自分たちの物語”を紡ぐことはできる。そう信じられる一瞬だった。
そこへ担任の先生が話題を引き取る。「学校としては、保護者会の手前……このままAI実験を続けるのは難しいということになってはいる。ただし、最終的に君たちがきちんと納得できる形を示してくれるなら、上の人を説得する余地があるかもしれない」。白石は「ありがとうございます」と深く頭を下げる。そして、こう付け加えた。「私、どうしてもこのAIを全部捨てたくない。だけど、いまのまま使うわけにもいかないし、どうすればいいのか……」
そうした議論が続いていく中、カナトは心の中でひとつの答えを見つけていた。「本当の私たちをそれぞれが尊重する」。それは言葉にすると簡単だが、とても大事なことだ。AIは、どこまでも合理性を追求する機械だ。だから心が不確かなものを抱えていても、それを“隠さず入力”すれば、それなりに正しく扱おうとするのかもしれない。だが、それでは機械の論理に依存してしまう。人間一人ひとりは合理性だけで割り切れない、この曖昧な“生き方”をわかちあいたいのだ。カナトが自分の性別や居場所について悩むように、きっと他の人も自分なりの境界線を抱えている。AIがどれだけ発達しても、その境界線を決めるのはAIではなく、私たち自身の声や選択ではないだろうか――。
翌週、クラスは外の空気が澄んだあのプレハブ小屋の前に集まることになった。そこには白石がこつこつ準備した“別の学習スクリプト”が用意されていた。AIに対し、「すべての答えを勝手に出すのではなく、人間が提示する悩みや希望をサポートする」という、いわば補助的な機能を優先させる設定を入れ込むのだ。白石は「これがうまくいくかはわからない。でも、やってみよう」と言い、みんなでAIに充電コードをつなぎ、設定ソフトを立ち上げる。すると、AIは再び動き出し、画面に“学習方針を再構築しますか?”というメッセージを表示した。その瞬間、教室の仲間に交じって小さくうなずくカナトの姿があった。
境界線。それは、いつの間にか社会や周囲が勝手に引いてしまっている一線かもしれないし、自分自身が臆病になって引いてきた溝かもしれない。だがそれは決して絶対的なものではなく、対話を重ねることで変化もすれば、乗り越えることもできるのだ。カナトは視線を隣の白石と交わし、口元に微笑みを浮かべる。そして心の中で思う――自分たちは、これから先も色々な壁にぶつかるだろうけど、少なくとも私たちのクラスは“自分たちこそが境界を決める権利がある”と知っている。
そうして、コンピュータの奥深くでAIが起動し直される。その暗い画面の奥に、確かに何か新しい光が差し込み始めたような気がする。結局のところ、AIがもたらすシンギュラリティの未来は、万能の救世主ではない。むしろ、私たちが未来をどう選び取るのかを問いかける“境界線の式(シグニチャー)”なのだ。人間らしさと多様性の尊重を、改めて突きつけてくる存在こそがAIなのだから。
そしてカナトは、まだあまりに幼いままの自分の意志を感じながら、一歩、一歩と踏み出していく。白石、クラスメイト、そして周囲の大人たちが“境界線”を静かに見つめ直す姿を横目に、カナトは奥深くで芽生えた決意を確かめるように胸に手をあてる。大丈夫、きっと次はもう少し自分の声を強く出せるはずだ。何かが変わる。何かを変えたい。そんな予感が、小雨の残る校庭に広がる虹のように、彼女の瞳を照らしていた。