二人だけの小さな冒険
駅前のコンビニでサンドイッチと飲み物を買い、そこから少し歩いた場所にある小さな公園へと向かった。夕暮れが近い時間帯のせいか、公園にはほとんど人影がなく、雨上がりの木々からはまだ時折しずくが落ちてくる。父親は、雨で湿ったベンチの上をタオルでざっと拭き、「ちょっと冷たいけど平気か?」と大輝に声を掛けた。大輝は「うん、大丈夫」と笑顔を作り、父親の隣に腰を下ろす。
父親は大輝に紙袋を手渡し、「好きなの選んでいいぞ」と言う。そこにはハムとレタスのシンプルなものや、タマゴサラダ、ツナが挟まったサンドイッチなどが詰め合わされていた。大輝は迷った末にタマゴサラダのサンドイッチを取り出し、一口かじる。ふんわりとしたパンとクリーミーなタマゴの味わいが口の中に広がり、少しだけ頬が緩む。父親はハムレタスを選び、飲み物のペットボトルをこつんと大輝のものと軽く当てて、「かんぱい」と下手な冗談めかした声を前に向けて放った。
一緒にサンドイッチを頬張りながら、二人はそろって雨に濡れた景色を見つめていた。駐車場から聞こえる車のエンジン音や、どこか遠くで聞こえる踏切の警報音がかすかに響く中、父親が突然、「今の家に引っ越す前、山の近くに住んでたこと、覚えてるか?」と切り出す。大輝は「あんまり覚えてないけど……近くに大きな公園があったのはなんとなく。あそこ広かったよね?」と答えた。
父親は「そうだな。あそこの芝生は広くて、母さんがよくレジャーシートを持っていってな……」と言いかけて、ふと黙りこむ。大輝も、母親の話が出ると少し表情を曇らせるが、どこか懐かしさに包まれているようでもあった。父親は小さく息を吐き、「あの時は、まだ俺もそこまで忙しくなかったからさ。休みの日はみんなで出かけたりしてな……」と続ける。声の端々には、少し後悔に似た感情がにじんでいた。
――それから数年。父親の仕事に変化があって、家族三人は今の町へ引っ越した。母親が亡くなってからは、父親はさらに仕事を掛け持ちするようになり、大輝と二人だけの暮らしが続いていた。それが原因で、父親の帰宅はいつも夜遅く、大輝が起きている時間に顔を合わせるのはほとんどなかった。家計を支えなければならないのは分かっていても、父と子の間にある距離は自然に――いや、無意識のうちに――広がっていた。
父親は、サンドイッチを食べ終えた袋を小さく折りたたむと、大輝の肩に手を置いて、「お前さ、最近学校はどうだ? 友達とはうまくいってるか?」と、ぎこちなく問いかける。大輝は少し身をこわばらせながら「うん、大丈夫。みんなと遊んでるよ」と答えたが、その声にはほんの少し戸惑いが混じっていた。――父親が自分の“日常”を気にかけてくれるのが、なんだか不思議だったのだ。
「そっか、ならいいんだけど……。なんか、最近あんまりお前のことをちゃんと見てやれなかったなって、思ってさ」父親は遠くを見つめながら言葉を続ける。「帰りがいつも遅くて……それで疲れて寝てしまって、お前とまともに話をする時間もなかった。だけど、今日は早く終わる日が作れたから。こうして少しでも一緒に過ごせたら、俺もほっとするんだ」
大輝は父親の横顔をちらりと見つめる。雨上がりの淡い光が公園に注ぎはじめ、父親の輪郭をやわらかくかたどっていた。長い間、父親とまともに話がしたかった――そう思っていたことが、心の奥底でふっと熱を帯びる。母親の思い出はもう戻らないけれど、父親と一緒にいる時間だって、いつの間にか遠のいていくのではないかと漠然と寂しさを感じていた。でも、今こうして横にいる父親は、自分に向き合おうとしてくれている。それが何よりも嬉しかった。
「俺、たまに思うんだ。お前は本当はどう思ってるのかなって。母さんのこと、家のこと……」父親は少し言葉を探すように口をつぐむ。一方、大輝もどう答えたらいいのか分からない。それでも、頑張って言葉を振り絞るように、「……なんだか、母さんがいた頃のこと、たまに夢で見るんだ。父さんも母さんも一緒に笑ってて、起きたらちょっと切なくなる」そう呟くと、父親は少し苦しそうに目を伏せた。
「そう、か。そうだよな。母さんがいた頃は、もっとみんなで笑ってたっけ……」父親の声はわずかにかすれて、小さく震えていた。大輝は、こんなふうに父親が自分の前で感情を揺らすところを、滅多に見たことがない。むしろ、そんな父親の姿を初めて見たかもしれない。だからこそ、大輝は言葉にできない紆余曲折を抱える父親の気持ちに、少しだけ近づこうと思った。「でも、今日みたいに父さんと一緒に過ごすのは、なんだか嬉しいよ」照れ隠しのようにそう言うと、父親は微かに笑みを浮かべながら、「ありがとうな」と応じた。
午後の雨はほぼ止み、木々の間からは少しくぐもった青空が見え始める。湿った空気の中に、雨上がりの独特の匂いが混じり、二人の少し強ばった心をほどいていくようでもあった。小さなサンドイッチのパッケージと、かすかな日差し。それだけの、ささやかな冒険のような時間。それは、父と子にとって失われつつあった「家族のあたたかさ」を取り戻すための、穏やかで大切な一歩になりつつあった。