この話のシリーズ一覧
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「お客様、申し訳ございません」
また同じ言葉を繰り返す。深夜のコールセンターで、モニターの青白い光が疲れた目を刺す。46歳、離婚歴あり、独り暮らし。これが今の俺だ。
時計は午前3時を指している。窓の外は漆黒の闇。夜勤の合間に、またあの人のことを考えていた。結婚する前の彼女のことだ。もう20年以上も前の話なのに、どうして今更こんなに心を占めるのだろう。

「はい、承知いたしました。では、改めて確認させていただきます」
機械的な受け答えをしながら、脳裏には彼女の笑顔が浮かぶ。若かった。純粋だった。まだ夢があった。今の生活とは違って。
朝6時、夜勤が終わる。いつものように24時間営業のサウナに向かう。この儀式だけが、今の自分を保つための唯一の救いだった。
脱衣所で服を脱ぎながら、鏡に映る自分を見つめる。かつての面影はない。たるんだ腹。白髪まじりの髪。疲れきった目。
サウナ室に入ると、じわりと体が温まっていく。汗が噴き出す。心臓の鼓動が早くなる。ここでは誰もが平等だ。社長も、フリーターも、失恋した中年男も。
「ジャーッ」
水風呂に飛び込む。体が引き締まる感覚。一瞬、全ての思考が停止する。そして、また彼女の面影が浮かぶ。

「私、結婚することになったの」
あの日、彼女はそう言った。俺は何も言えなかった。ただ、おめでとうと言って、笑顔を作っただけ。その後、彼女の連絡先を消して、必死に忘れようとした。
でも、離婚して一人になった今、あの時の選択は正しかったのだろうか。もし、あの時…。
外気浴スペースで、朝日を眺めながら考える。マンションの部屋では、また夜勤のシフト表が待っている。明日も、また同じ日常が繰り返される。
携帯を取り出す。ソーシャルメディアで彼女を検索しようとして、やめる。知らない方がいい。きっと、幸せな家庭を築いているはずだ。

(行こうか...)
自分に言い聞かせるように呟く。朝の街に、また一人の中年男が溶けていく。今日も、誰かの電話を待ちながら、夜を明かすのだ。
夜の片隅で~深夜の切なさに~