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境界線の式(シグニチャー)

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 結城(ゆうき)カナトは転がる鉛筆を目で追いながら、やや湿った教室の空気を感じ取っていた。梅雨の気配を含んだ六月の朝。窓の向こうでは小雨が降っていて、音もなく校庭の砂埃を抑えこんでいる。カナトが通う中学校は、それほど大きくはない公立校だ。校庭の片隅に設置されたプレハブ小屋には、少し古びた卓球台や書道の道具が無造作にしまわれている。「もう三年生か」といつものように思っては、心の中でそっと息をつく。

 彼女は周囲から見れば“どこにでもいる女子生徒”と捉えられていたかもしれない。成績は中の上。運動もそこそこできる。ただ、人前で自分の考えを語るのは少し苦手で、クラスの中では“穏やかで、あまり目立たない子”という印象に落ち着いていた。しかし、そうやって自分が「こういう生徒なんだ」と周囲に認識されていること自体、どこか居心地の悪さも感じていた。

 理由ははっきりしている。彼女、結城カナトは、いわゆる戸籍上は“女子”ではあるものの、その性別に対して小さな違和感を抱いているのだ。たとえば髪が長いことや、スカートを身につけること。それ自体を不快とまでは思わない。ただ、「自分は本当にここにいていいのか」という問いが、気づけばいつも胸の内にあった。名札に書かれた“結城カナト”という名前さえも、ときどきよそよそしく見えるほどだった。誰にも相談できず、言葉にまとめることすらできないまま、気づけば中学三年生の夏が目前に迫っている。

 そんなカナトが、クラスメイトの白石(しらいし)ミズキとは奇妙な縁でつながっていた。白石は理系分野に強く、特にプログラミングやコンピュータにめっぽう詳しい。その知識量は先生も舌を巻くほどで、彼女(白石は女性だが、性格は淡々としており、性別をあまり意識していないように見える)の白衣をイメージさせるような性格から、カナトは密かに“エンジニアタイプ”と呼んでいた。白石ミズキは難しい数式を書き連ねる一方で、どうやら今回、学校に最新のAIサーバを持ち込むという大胆な計画を実行に移そうとしているらしい。

 きっかけは、白石が科学雑誌で読んだ「AIによる学習支援システム」の特集記事だった。人数の多い学校では、生徒の学力や関心をAIが分析して、各自に合わせた学習提案をするという試みがある。だが白石はそれだけでは面白くないと思い、「学校が抱えている問題や、生徒同士の共通項をAIで見つけられないか?」と考えたのだという。それを聞いたとき、カナトは直感的に「怖い」と思った。なぜなら自らが抱える“言えない秘密”をいつかAIに暴かれてしまうかもしれない、そんな不安が胸をかすめたからだ。

 しかしながら、同時に彼女の中に奇妙な期待感も生まれていた。「もしかしたらAIが、私自身すら理解できていないこの“よそよそしさ”の原因を教えてくれるかもしれない」。目の前にある不可解な境界線を、誰かがはっきりと指し示してくれるのなら、それが機械であっても救いになるのではないか――そんな揺れる思いがあった。

 六月下旬、白石ミズキが実際にAIサーバを教室の隅に持ち込み、清掃時間のあと、みんなが教卓の周りに輪を作った。先生方は「大丈夫なのか?」「セキュリティやメンテナンスはどうするの?」と最初は半信半疑だったが、白石があまりに自信満々に説明するため、「実験的にやってみるのはいいだろう」という許可が下りたのだった。機材を扱う姿の白石は、それはもう輝いて見えるほどテキパキしていて、LANケーブルや電源コードをスイスイとつなぎ、ラップトップを開いてコードを走らせる。クラスの中には興味津々の子もいれば、「何をするのかわからない」と困惑の顔をする子もいる。しかし全体的に、ちょっとしたお祭りのような空気が漂っていた。

 白石曰く、今回の実験の目的は「みんなのSNSやチャット履歴、テストの回答傾向、学校での行動データなどを機械学習させ、共通するテーマや目標を見出す」ことだという。もちろん個人情報の扱い方やプライバシーへの配慮は白石なりに考えているらしい。たとえば名前を伏せたうえで傾向だけを分析するとか、そういう最低限のフィルターはかけるようだ。だが、実際にどこまでが“適切な範囲”なのかは誰にもわからない。教師たちも「個人情報が流出しないだろうな?」とくぎを刺しながらも、結局は白石の才覚に期待している感があるのだった。

 その日の放課後、カナトは体育館裏で白石ミズキと顔を合わせた。行き止まりになった狭いスペースに、雨で湿った木の板の匂いが広がっている。バスケ部が使うボールが転がっているのを横目に、二人は立ち止まった。 「ねえ、白石。AIでさ……みんなのことを調べるのって、ちょっと危険じゃない?」  カナトはおずおずと問いかけた。白石はポニーテールの髪を揺らしながら、一瞬黙ってから答えた。 「カナトちゃんは、何を心配してるの?」 「みんなそれぞれ……人に言えないことだってあると思う。家族の事情とか、友達同士の秘密とか。それこそ、私がもし何か抱えていたとして、それが勝手に暴かれちゃうかもしれなくて……」 「うん、わかるよ。私だって、慎重にやるつもり。でも、AIってのは面白いものでね。人間同士じゃ気づかない共通点とか、意外な事実を見つけてくれるの。たとえば“クラスの半数以上は共通してこの漫画が好きだ”とか、“実は大半が数学より国語が苦手”とか、そういう気づきが得られるかもしれない。そこから色んな対策が立てられるでしょう?」 「うん……」  確かに、そうした“気づき”は意外に役立つかもしれないと思う。一方で、カナトの胸の奥には言い知れぬ不安がまだ渦巻いていた。

 次の日の昼休み。白石たちは小さなグループを作り、AIの初期学習用にクラス全員からアンケートを集めることにした。回答項目は一見すると大した内容ではない。「好きな科目は?」「部活動は?」「将来の夢は?」など、ごく一般的なもの。それでも、みんなが無防備に書き出した文字の数々、SNSに投稿した何気ない文言ひとつがAIに集められ、統合的なデータベースとして蓄積されていく様子を想像すると、見えない不気味さを感じる子もいた。アンケートを回収する手伝いをしていたカナトは、クラスメイトたちがどこかそわそわしている空気を感じていた。自分だけが不安なのではない、と少しだけ安心する気持ちにもなった。

 やがて五月雨式にデータが蓄積されていき、それをAIが解析し始めると、白石は真剣な面持ちでノートパソコンを見つめる時間が増えた。時折、「ふーん」「なるほど」と呟く。まるで職人が木彫りの彫刻を丹念に磨いていくようだった。時間が経つにつれ、AIはクラス内に“いくつもの興味深いパターン”を見いだし始める。昼休みの雑談で「この映画が妙に話題になっているグループ」「SNSで特定のキーワードを使ってやりとりしている仲良しグループ」など、表にはあまり出てこなかった小さな共通ポイントをいくつもリストアップしていったのだ。

 当初はそれが、単純な“クラスの一体感づくり”に役立つはずだった。クラスのみんなで「へえ、意外とみんなミステリー小説が好きなんだ」とか「SNSで同じスタンプを使ってたんだね」という具合に話題が広がっていくはずだったのだ。だが、次第にAIはどこか鋭く、そして人間離れした観点でデータを分析するようになる。何気なく書かれた文章や、わずかな発言回数の差から「このグループとあのグループ、関係が少しこじれてないか?」とか、「この生徒は自己肯定感が低い傾向にあるかもしれない」まで推測を始めたのである。

 それだけではない。AIは、教師たちですら把握していない秘密や悩みに触れ始めた。たとえば、いじめの予兆を示す言葉づかいを洗い出したり、SNSで特定の子が悪口を頻繁に言われていることを指摘し始めたり。そしてカナトのように、性別やアイデンティティに揺らぎを感じているらしいサインをAIは確率として算出しようとしたりしていた。実際、カナトが書いたアンケートの回答に「自分の性格に合っているかはわからないけど、ファッションは中性的な方が好き」といった内容の項目があった。AIは、そこにあるかすかな言葉の機微を拾い取り、ものの見事に“ジェンダー違和感”というタグを付そうとしていたのだ。

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