ドラマ 短編作品 青春

【街角の小さな世界を見つめる“ぼく”】昼下がりの交差点に訪れる迷い

1.夜に立ち尽くす青年
2.雨の日に咲く傘たち
3.夜のレクイエムと踊る影
4.昼下がりの交差点に訪れる迷い
5.暮れのシグナルに映る希望

ぼくは、街角に立つ一本の信号機だ。名前も語る声も持たないかわりに、赤・青・黄の三色を規則正しく灯し、人々に「いつ進み、いつ止まるか」を伝え続けている。朝の通勤ラッシュや深夜の静寂、雨の日の傘の群れ……この交差点を行き交う人々の風景は、時間や天候によってさまざまに変わるけれど、ぼくはただ粛々と光を切り替える。それがぼくの務めであり、自分がここに存在する理由なのだと思っている。

今日の町は、雲ひとつない眩しい太陽に照らされている。時刻は昼下がり。朝や夕方のような混雑時間帯が過ぎ去ってしまうと、このあたりは比較的ゆったりとした空気に包まれる。とはいえ、道路を行き交う車や人がまったくいないわけではない。近くのオフィス街でランチを終えた会社員たちが、昼休みの終わりを惜しむかのように歩く姿が見えるし、ウィンドウショッピングを楽しんでいる人がのんびりと通り過ぎることもある。

けれど、通り全体のテンポは穏やかで、ぼくが赤から青へ、青から黄へと切り替わるその間に、いつもよりも長い間、誰も渡らない瞬間さえ生まれる。そんな時間帯、ぼくはまぶしい日差しを受けながら、まるで昼寝をしているような気分になる。もちろん、本当の眠りにつけるわけではない。ぼくの光は変わらず、一定のテンポで交差点を支配している。信号機に休日はないし、昼下がりののんびりした雰囲気は、ただ周囲から伝わってくるだけのものだ。

こんなふうに日差しが強いと、地面から陽炎が立ち上り、遠くの景色がゆらゆらと揺れて見えることがある。車道の向こう側にいる人の姿が、少し歪んだ映像のように映るのだ。特にアスファルトが熱を持ち始める夏場は、ぼくの目にもそれが顕著にわかる。通り過ぎる人々は額の汗を拭い、ペットボトルのお茶や水を飲んだりしながら、誰もがゆっくりとした足取りだ。

ところが、ぼくの視界に飛び込んできた一人の女性は、ほかの人たちとはちょっと違う。真面目そうなスーツ姿で、髪はきちんと一つに束ねられている。首元には小さめのスカーフが巻かれており、手にはスマートフォンが握られていた。まるで何か切羽詰まったような顔つきで、しゃがみ込むように画面を凝視している。ときおり親指以外の指で口元を押さえながら、思案している様子がうかがえる。昼下がりのうららかな雰囲気からは少し浮いているようだ。

ぼくが赤信号を灯しているとき、その女性はちょうど横断歩道の手前に差しかかり、一旦足を止めた。そして、スマートフォンの画面とにらめっこしながら、なにやら文章を打ち込み始める。ツイッターやSNSを見ているのかもしれないし、大事なメールを送ろうとしているのかもしれない。けれど、その指先は急ぎというよりも、迷いながら文字を選んでいるように見えた。

昼下がりの閑散とした交差点。周囲を行き交う人の流れは少なく、多くは日差しを避けるために日陰へと逃げ込んでいる。そんな中で、彼女だけが妙に立ち尽くしているのは、何やら深刻な内容を考えているからだろう。会社員らしき彼女の表情に刻まれた迷いの色が、ぼくにも手に取るようにわかる気がする。この瞬間、ぼくはいつもと同じように青へ切り替わろうとしているが、ふと「もう少しだけ待ってあげたい」と思ってしまう。信号機としてはあり得ない感情だけれど、人の悩みというのは、ぼくの三色では割り切れないものだからだ。

しかし、ぼくは機械であり、感情のままには動けない。決められたタイミングが来ると、やはり青に切り替わる。途端に、「ピッ、ピッ」という電子音が周囲に響き、車は停止し、人々が横断歩道を渡り始める。とはいえ、この時間帯は人通りも多くない。女性の周りにいた人も、ちらほらと渡り終えてしまうと、道はまたすぐ静かになる。

その女性も、青になってしばらくは歩き出す様子がなかった。スマートフォンを見つめたまま、唇を噛んで思い悩んでるらしい。短いメッセージにもかかわらず、なかなか送信できずにいる模様だ。人間の迷いというのは、こうやって一見些細な動作に現れる。メールの一文が決まらない、送信ボタンを押すタイミングが見つからない――それは単なる操作上の問題でなく、心の中に渦巻く不安や期待が形をとったものなのかもしれない。

やがて、他の歩行者たちが通り過ぎていっても、まだ彼女はそこに立ち続けていた。陽射しが強く、額から汗が滲(にじ)んでいるのか、それとも緊張や迷いのせいで体温が上がっているのか。涼しげな見た目のワイシャツ姿でも、その小さな体は疲れているように見える。春から夏にかけての異動シーズンにも、きっと会社内でいろんな動きがあるのだろう。みんなが希望や不安を抱えながら、新しい部署や新しい仕事環境へ飛び込む。それは彼女にとっても、避けて通れない道なのかもしれない。

ぼくは一度赤へ戻り、また次のサイクルで青へと変わる。そのとき、画面を見つめたまま過ごしてきた彼女の表情が、ほんの少しだけ変わった気がした。送信ボタンを押そうと決意したのだろうか。それとも、まだ迷いを残しているのか。小さく息を飲んだように肩が上下したあと、彼女は思い切ったようにスマートフォンの画面を指で操作している。

次の瞬間、彼女は一歩、横断歩道へ歩みを進め、それに合わせるように指先が画面をタップした。まるで、ぼくが青信号を灯した“この瞬間”こそが、彼女の大切な区切りであるかのようだった。

「異動を受け入れますか?」

画面をちらりと見やったとき、その文面がそう見えた。彼女は迷いを振り払うように、送信ボタンを押し込んでいる。そのまま歩を進め、横断歩道を渡り始めた。昼下がりの白い日差しが、彼女の髪の結び目やスーツの背中を鮮やかに染めているのがわかる。汗ばむ季節の匂いとともに、ぼくは彼女の決断にほんの少しだけエールを送りたい気分になった。

横断歩道を渡りきるまでは、数秒のことだ。彼女はわずかな時間の中、スマートフォンに表示される送信完了のメッセージを見て、そしてこれから自分に降りかかる変化を想像したのだろう。会社での配置換えとは、大抵はどうしようもなく大きな転機になり得る。希望に満ちた部署に移れるのか、あるいは負担が増えるようなポジションに就いてしまうのか。あるいは未知の同僚との人間関係が待ち構えているのかもしれない。どれも予想がつかないまま、メールを一通送るだけで未来が決まってしまうように感じることだってある。

けれど、彼女はそのメールを送った。結果はどうであれ、まず自分の意思を示してみる。それが最初の一歩になる。上司への返事を引き延ばすこともできただろうが、ここで踏み出す決断は、いつか自分のなかで小さな誇りになる気がする。まるで、ぼくの青信号が、彼女の中にある“一歩踏み出す”勇気を映し出したようでもあった。

彼女が渡りきった先の歩道で、いったん呼吸を整えるように大きく息を吐いたのがわかった。さっきまでの張り詰めた表情が、少しだけ柔らかくなっている。スマートフォンを握った手を下ろし、画面を一度消して、上空を仰ぐ。昼下がりの太陽がまぶしくて、目を細めている。その横顔には、ほっとしたような、あるいは未来への期待が微かに混じった笑みが浮かんでいるようだった。

そのまま、彼女はスマートフォンをカバンにしまい、再び歩き始める。歩幅も少しだけ大きくなって聞こえる。決断を下すまでは固かった肩が、いまは少しほぐれているのかもしれない。ぼくの青信号は彼女が渡りきったあとも数秒ほど続き、それまで誰もいなかった横断歩道に、ポツリと後から数人の通行人が入れ替わるように歩き出す。ぼくはそのまま青から黄へと変化させ、やがて赤へと戻っていく。

いつもと変わらないルーティン。ただ、ひとつ違うのは、ほんの一瞬でも「彼女の決断を見守れた」と実感できることだ。それはぼくが彼女に何かを伝えたわけではない。ぼくは機械だから、直接声をかけることなんてできない。けれど、彼女がぎりぎりまで迷い、送信ボタンを押したあの一瞬に、ぼくが青く灯っていたことが、ほんの少しだけ後押しになっていたらいい――そう思わずにはいられない。

昼下がりの時間帯、暑さのせいで気が遠くなるような静けさの中、ぼくの赤や青はいつもよりも線がくっきりと見えるように感じる。日射しに反射した赤は強烈に目に焼きつき、青はどこか涼しげで、黄は一瞬の猶予を与える合図のように輝く。彼女が見上げたとき、どの色が見えていたのかはわからないけれど、もしかするとその瞬間の色こそが、迷いを吹き消す仕掛けだったのかもしれない。

彼女が去っていったあとも、ぼくは相変わらず同じテンポで光を変え続ける。通り過ぎる人々の中には、観光客らしき姿や、近所で買い物帰りの中年の女性、もしくは学生服のままアイスを頬張る高校生もいる。誰もがそれぞれの事情を抱えながら、ぼくの前を行き来する。いつもの昼下がりの風景といえばそれまでだ。でも、こうして眺めていると、どの人にも「迷い」のタネは存在しているのだと感じることがある。進むか、止まるか。内へ閉じこもるか、外へ踏み出すか。その分岐点が大きいか小さいかは人によって違うけれど、誰もが日常の一瞬にそれを決めている。

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