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東屋旅館は、海を見下ろす小高い場所にあった。白壁の二階建て。木製の看板は、長年の潮風で色褪せている。
「はい、ここよ」
軽トラックを停めた老婆は、優子の荷物を降ろすのを手伝ってくれた。
「あの、ありがとうございました」 「気にしないで。あ、そうそう」
老婆は何かを思い出したように、軽トラの荷台から紙袋を取り出した。
「よかったら、これ食べてみて。うちで採れた野菜。お裾分けするつもりだったの」 「え、でも…」 「遠慮しなくていいの。私、この宿の女将の妹なのよ」
そう言って、老婆は軽やかに手を振り、走り去っていった。優子は紙袋を抱えたまま、しばらくその後ろ姿を見送っていた。
「いらっしゃい」
振り返ると、玄関に女将らしき人物が立っていた。老婆に似た、穏やかな表情の女性。
「お電話いただいた、山田優子です」 「ああ、一人旅のお嬢さん。姉がお世話になったみたいね」 「はい、駅まで」 「あの子ったら、相変わらずね」
女将は優子の荷物を受け取りながら、懐かしそうに微笑んだ。
二階の六畳間に案内された優子は、荷物を解きながら深いため息をついた。窓の外には、確かに海が広がっている。雑誌で見た景色が、目の前にある。
「お風呂は、いつでも大丈夫ですよ」
女将が茶托を持って現れた。冷たい麦茶と、蜜柑の形をした干菓子。
「ありがとうございます」 「せっかくだから、今日は海に行ってみたら?この時間なら、まだ人も少ないわ」
優子は時計を見た。まだ午後三時。チェックインしてすぐに外出するのは、どこか気が引けた。でも、窓から見える海に、強く惹かれている自分がいた。
「じゃあ、少し…」
着替えを済ませ、階段を降りる。玄関で女将から貸し出された日傘を受け取る。
「あ、そうだ。夕方六時頃に戻ってきてね」 「はい?」 「晩ご飯の前に、ちょっと良いものが見られるから」
女将の言葉の意味は分からなかったが、優子は素直に頷いた。
海辺に続く坂道を、ゆっくりと下りていく。観光客らしき人影は、ほとんど見当たらない。ただ、路地の片隅で井戸端会議をする主婦たち。軒先で昼寝する猫。日差しを避けるように建つ古い家々。
そこには、都会では失われてしまった、何かがあった。